銀杏の木の下で
中島久枝
1
「もしかして坂井さんじゃないですか」
午後の地下鉄の中で、規子は声をかけられた。振り向くと、二十代後半と思えるスーツ姿の男と目があった。
「ああ、やっぱりそうだ。啓徳小学校に通っていた、坂井規子さんでしょう」
縁なし眼鏡の奥に、細い目が光っている。短く切った髪を七、三に分け、手には黒い皮鞄をさげていた。
「古屋です。古屋祐一郎。三年生まで同じクラスで、よくいっしょに帰ったでしょう」
規子はあわてて、薄い唇やえらの張ったあごに昔の面影を探した。三年生で転校して、以来十九年が過ぎている。同窓会に出席したこともない。
「忘れられちゃったか。もっとも、ぼくは三年生の冬に転校したから、卒業アルバムにも載っていないけれど」
男は淋しそうな表情をみせた。眉をよせたその額のあたりに、見覚えがある。
そういえば、同じクラスに古屋という背の低い、やせた男の子がいたはずだ。
「ごめんなさい。わたしも三年生のとき、転校したのよ。突然、心臓がどきどきしたり、泣き出したりするようになって、お医者さんに空気のいいところで静養するほうがいいって勧められたの。でも、どうして、私のことが、分かったの」
「昔の顔のまんまだもの。丸顔で目がくりっとして、それにえくぼがあって。もう、間違いないと思った。仕事中ですか?」
規子は恥ずかしくなって、うつむいた。五年勤めた会社を突然リストラされて、三ヵ月。今日も面接の帰りだが、とりたてて特技のない二十七歳に、担当者は露骨に渋い顔をした。
「校舎、来週取り壊されるんです。知っていますか?」
規子はうなずいた。
啓徳小学校は明治の開校で、都内でも何番目かに古い小学校だ。昭和のはじめに建てられた校舎は鉄筋三階建てで、正面の窓にはアールデコ風の飾りがあり、階段は優雅ならせんを描いていた。
雰囲気のある建物だったが、老朽化して建て替えになることが決まった。思い出の校舎で同窓会を開くという案内が来ていた。同級生名簿も入っていたような気がするが、規子はろくに中も読まずに欠席の返事を書いた。
「銀杏の木も抜かれてしまうんです」
「どうして?」
「敷地が足りないんですよ」
「だけど、あの木は、啓徳小学校のシンボルだったんじゃないの?」
大銀杏は、樹齢二百年といわる大木だ。幹は両手を広げた子供が十人かかっても抱えきれないほど太く、四方八方に力強く枝を広げていた。春になると小指の先ほどの黄緑色の芽をつけ、夏には枝が隠れるほど、緑の葉を繁らせ、それが秋に金色に変わった。
根は、ねじれてからみあうように地面から盛り上がり、根の上を歩いて木のまわりを一周することができた。規子たちは、根から落ちたら負けというきまりで、鬼ごっこをした。
「反対運動もあったらしいけれど、銀杏の木を残そうとすると設計に無理がでる。葉も落ちるから管理が大変。でも、一番の理由は、見るからに陰気な感じがしていやだという近所の声だったそうです」
古屋がいった。
大銀杏には、言い伝えがある。
かつてその場所は、さる大名のお屋敷で、そこには白い着物を着た子供が住んでいた。生まれたときから病弱で、少し日にあたりすぎただけで熱を出し、小さな切り傷がいつまでも治らなかった。白い着物は、けがをしたら、すぐに分かるようにという母親の配慮だったらしい。
門から外に出ることは禁じられていたから、子供はいつも、お屋敷の庭でたったひとりで遊んでいた。十歳の春、子供が死んで、その魂が銀杏の木に宿った。今でも、静かな夕暮れになると、「遊んでよう、遊んでよう」と呼ぶ、子供の声が聞こえる、といわれていた。
「あながち、作り話でもないのよ」
規子はいった。
「区の広報紙で読んだんだけど、江戸時代、あそこは寺で、少し掘ると子供の骨がたくさん出てくる。どうして、子供の骨ばかり出てくるかわからないけど。そして銀杏は水分が多いので、建物への延焼を防ぐとして、寺や神社に植えられていた。あの大銀杏も火伏せの木として、寺を守っていた。そこで、子供と銀杏が結びついた幽霊話がうまれたというわけ」
それだけなら、面白い昔話ですむが、実際に夜中に子供の遊んでいる声を聞いたとか、姿を見たという人がいるので、ことは少し面倒になる。
たしかに、大銀杏は、日がかげると、昼間のおだやかな様子から一変して、妖気を漂わせる存在に変わった。だから、啓徳小学校の生徒たちは、どんなに遊びに夢中になっていても、夕方になるとそわそわしだし、だれがいいだすともなく帰り仕度をはじめた。霊とか、もののけとか、目に見えないものたちが引き寄せられていく磁場だったのかもしれない。
「伐採工事は、明日からです。だから、あの木に会えるのは、今日しかない。ここで会ったのも何かの偶然ですよ。ね、あの銀杏の木を見に行きませんか?」
「これから?」
「だって、すぐ近くじゃないですか」
古屋は誘うような笑顔を浮かべた。求職中の規子に、とくに予定があるわけではない。
「じゃ、決まりですね」と古屋が応えた。
次の駅で降りて、長いエスカレーターでさらに地下に下り、別の地下鉄に乗り換えた。混んでいて席はなく、ふたりは並んでつり革につかまった。
「樹木も百年以上生きると、霊力が宿るというのは、本当かしら」
「霊とか、信じるほうなんだ」
古屋は笑った。その顔が一瞬、子供の顔に見えた。頬がこけ、あごがとがり、唇がかさかさに乾いている。大人の服を着て、大人のような髪型をしているが、背は低く、袖口から伸びた腕は細く、背伸びをするようにして必死でつり革につかまっている。
驚いて目を移すと、向かいの乗客が目をそらした。その顔も、十歳ぐらいにしか見えない。座って居眠りをしている男も、デパートの買い物袋を提げた女も、入り口近くでスポーツ新聞に読みふけっている男も、しぐさは大人だが、子供の顔と体をしている。世間話に夢中の二人の女のスカートから伸びた足は、床に届かずにぶらぶらと揺れている。
地下鉄の窓には、大人の規子を取り囲むように、たくさんの子供たちが映っていた。
規子は小さく叫び声をあげて、床にしゃがみこんだ。
「どうしたの?」
古屋の声がした。おそるおそる目を開けると、大人の古屋が心配そうな顔をしていた。ゆっくりとあたりを見回すと、いつもの地下鉄の光景に戻っていた。
「ちょっと、めまいがしたの」
「大丈夫?」
「うん」
「本当? なら、いいけど。ぼくは子供のころ、体が弱かったから、しょっちゅうめまいを起こしたり、気持ちが悪くなったりしていた。暗いところ、毛虫、ジェットコースター、みんなだめだった」
「わたしは、健康優良児だったのよ。風邪ひとつひかない子だった」
「でも、お医者さんに転地するよういわれたんでしょう?」
「そう。どうして、急にそんな風になったか、自分でもよく覚えていない。でも、こういうことは、原因を突き詰めようとしたりしないで、のんきにしているほうがいいんですって。確かに、大人になったら自然に治ったわ」
規子は、そういいながら、ふと、不安になった。
本当に、のんきにしていていいのだろうか。何か、とても大切なことを忘れているのではないだろうか。
けれど、それは一瞬のことで、規子はすぐに忘れた。
2
地下鉄を降りて地上に出ると、首都高速が頭上を走る大通りに出た。巨大な高層タワーが空を覆うようにそびえていた。よく晴れた日で、初夏の風が吹きぬけていく。太陽の光を浴びたポプラの街路樹は若葉を光らせ、行きかうバスや自動車は洗いたてのようにくっきりと見えた。
交差点を左に折れると、商店街になる。規子が子供だったころは、古い商店の並ぶ庶民的な街だったが、今はすっかり整備されて、おしゃれなカフェやレストランが軒をつらねている。
「規ちゃんの家って、商店街のふとん屋さんだったでしょう」
古屋は、昔の呼び方でたずねた。
「よく、覚えているわねぇ」
「だって、規ちゃんの家でテレビ見せてもらったじゃないか」
古屋は口をとがらせた。それを見た途端、規子は、はっきりと「三年生の古屋君」を思い出した。
体が小さくてやせていて、クラスでは前から三番目だった。手足は細く、肩幅も狭いので、遠くから見ると頭ばかりが大きく目立った。算数と理科が得意で、体育はまるで苦手だった。車に酔うので遠足のときは、いつもバスの一番前に座らされていた。
「思い出した。古屋君のこと」
「なんだよ」
「おかしい。その口のとがらせ方、三年生のときと、全然、変わってない」
声をかけられたときは、まだ、ぼんやりとして何か遠い夢の中のようだった。古屋にいわれると、「そうか」と思うが、さてと、記憶をたどると自信がない。薄紙を張ったようなもどかしさが、ずっとつきまとっていが、今は違う。
奥深くにしまわれていた古い記憶の扉が開いたのだろう。どうどうと水が溢れ出すように、さまざまな出来事が浮かんでは消えた。
「そうだ。リュウをいっしょに見たんだよね」
毎週水曜日の五時から、アニメ『銀河少年リュウ』が放映されていた。リュウ少年がノバラ姫を助けて、さまざまな冒険をしながら宇宙を旅するというストーリーに、規子たちは夢中になった。とくに熱心だったのは古屋で、リュウを見てから家を出ると塾に間に合わなくなると、規子の家で見ることにした。
塾のかばんを下げた古屋は、十五分も早く規子の家に来た。二階の茶の間のテレビの前に並んで座り、番組が始まるのを待った。テーマソングが鳴り出すと、規子と古屋は声を合わせて歌った。リュウやノバラ姫に危険が迫ると、古屋は座っていられなくなり、立ち上がって叫び声をあげたり、壁をけるまねをした。リュウとノバラ姫を何度も助けてくれた、宇宙犬のポイが死んだとき、古屋は声をあげて泣いた。
「ぼくは、あれほど、ひとつのことに夢中になったことはないね。毎日、リュウのことばかり考えていた。一途に、思いつめていた」
「一番は、ノバラ姫じゃなかったの?」
規子がからかった。古屋の教科書やノートには、リュウやノバラ姫の絵がいくつも描かれていたのだ。
「そう。ぼくの初恋の人はノバラ王女なんだ。リュウは最初、弱虫のいじめられっ子だったけど、ノバラ姫に出会って、勇気をもらい、強い少年に変わっていく。そこが好きだったんだな」
真冬でも、半ズボンにソックスというのが、かっこいいとされていたのに、寒がりの古屋は長靴下をはいていた。強い少年に変身していくリュウの姿に、自分を重ね合わせていたに違いない。
「ぼくは、早く大人になりたかった。大人になって、リュウになるんだと真剣に考えていた。だけど、よく考えてみたら、リュウは永遠の少年なんだよね」
規子は声をあげて笑った。塾に通うのは私立中学に進学するためで、将来はいい大学に行くのだといっていた。
「古屋君のもうひとつの夢はかなったの?」
「あれを夢っていうのかな。でも、なんとか予定通りにはなったよ。規ちゃんは?」
「わたし?」
あのころ、自分はどんな夢を描いていたんだろう。規子は自問した。
「いやだなぁ、忘れちゃったの? 動物のお医者さんになるっていってたんだよ」
そうだ。ドリトル先生みたいになりたかったのだ。将来の夢はその時々で変わり、今は、その夢すらもない。
「大人になるって、自分の夢をひとつ、ひとつ、あきらめていくことなのね。ああ、つまらない。大人になっても、いいことなんか、ひとつもなかった」
穏やかな風が吹きぬけていった。
「規ちゃんの初恋の人って、だれだったの?」
古屋が突然たずねた。一瞬、成瀬の横顔が蘇って消えた。規子と古屋、成瀬は家が近く、よくいっしょに遊んだのだ。
「成瀬じゃなかったの? ほとんどの女子は、成瀬が好きだったんだよ」
「違うわよ。いつもいじめられてたのよ。髪の毛ひっぱられたり」
成瀬のことを思うと、規子は少し切ない気持ちになった。てんぷら割烹の一人息子で、長いまつげで彩られた、涼しげな目をした少年だった。前髪をムースで立ち上げ、ランドセルが壊れたと称して、スポーツバッグを持ってきていた。早熟で、ちょっと不良がかったところに、規子はひかれた。成瀬と並んだり、手をつないだりすると、胸がどきどきして、頬が赤くなった。それをみんなに気づかれないようにするのに苦心した。
人を好きになったときの、甘さと辛さを知ったのは、あのときだ。
商店街が終わると、道は細くなり、ゆるい上り坂になった。右側は大使館、左側は教会で、どちらも高い塀に囲まれ、うっそうと木が繁っている。
坂の上の方に、ランドセルを背負った男の子の姿が見えた。
規子と少年の間には、信号がある。この通りは昼間でも暗くて、見通しが悪いので車の事故が多かった。登校時には、父兄が立っていることもあった。
男の子は、なにかとても急いでいるようだった。体が前のめりになり、足がもつれている。走っているというより、坂道を転がってくるようだ。
規子たちは信号の手前に立っていた。信号は青から黄色に変わり、すでに点滅をはじめている。横断歩道の手前に止まっているバイクが、エンジンをふかしはじめた。だが、思いつめた表情の少年には、目に入らないらしい。
「バイクが来てるよ」
規子は思わず声をかけた。
少年は止まらない。顔を真っ赤にして、肩で息をしながら、かけてくる。
信号は黄色から赤に変わった。
少年が交差点に飛び出す。バイクが発進する。
規子は叫び声をあげて目を閉じた。古屋が腕をつかんで、規子を引き戻した。
子供の姿は消えていた。
坂道を昇りきると、右手に小学校の門が見えた。灰色の鉄筋の校舎があり、コンクリートの校庭では体操服の子供たちがダンスの練習をしている。生徒は三十人ほどなのに、間隔をあけて広がると、校庭の半分ほどがうまってしまう。
「校庭って、こんなに狭かったかしら」
一クラス四十人で一学年三クラス、合わせて七百人の生徒が集まって運動会をしたり、朝礼をしたりしていたのが信じられないようだ。
校庭や校舎が小さく見えるのは、規子たちが大人になったからだけではないだろう。敷地をぐるりと囲むように高層ビルが建っている。学校のある空間だけがぽっかりとあいて、空はビルの形に切り取られている。
校舎のはずれには、新緑の若葉を繁らせた大銀杏が見える。どっしりと大きく、幹は太く、地面からずぶりと突き出た緑色のこぶしのようだ。
トレーニングウェアを着た先生らしい人が近づいてきたので、来訪の意図を告げると、すぐに門を開けてくれた。
古屋は事務所に二人分の記帳をしにいった。規子は、吸い寄せられるように大銀杏に近づいていった。まわりにはロープが張られ、伐採の準備が整っていた。
規子はロープをくぐって、中に入った。根元に立って空を見上げると、びっしりと生えた若葉が空を何重にも覆って光をさえぎり、足元に目を移すと、地面には濃い影が落ちている。
ひびわれて、ざらざらとした幹を黒ありが列を作って、忙しそうに昇ったり降りたりしていた。大銀杏は、たった一本でひとつの森なのだ。深く、大きく、豊かで、同時に不思議な力を宿している。
「受け付けの人に聞いたらさ、今、一学年、たった三十人しかいないんだって。校庭で練習しているのが、三年生。全校生徒合わせても、二百人なんだよ」
古屋が大またで歩いてきて、規子に報告した。二百人なら、この小さな校庭でも十分だし、新しい教室を増やす必要もないはずだ。どうして、あわてて大銀杏まで伐採する必要があるのだろう。
「教育とか医療とか、いろいろ備わった複合施設を作るんだってさ」
規子はふいに胸がしめつけられるような気持ちになった。
「どうしたの、急に」
「なんでも、ない」
そう応えた途端、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい。店のこと思い出したの。あのふとん屋のこと」
古屋は、だまって大銀杏を眺めている。葉を揺らして風が吹きぬけていった。
「私、あの店で育ったのよ。奥に四畳半と台所があって、二階に六畳が二間。わたしが生まれたときは祖父母が生きていたから、あそこで一家五人が暮らしていたの」
規子が転地療養することになり、ちょうどそのころ、土地を買いたいという人が現われて、親戚のいる新潟に移った。三十坪に満たない土地に思いがけない高値がついたが、税金を払い、引越しをすませ、残ったお金を計算したら意外に少なくなっていた。
小さいとはいえ自分の店を持って気ままに過ごしていた父親が、今さら勤め人になれるわけはなく、かといって、もう一度店を開く気持ちもなく、知り合いの手伝いをしながら、ぶらぶらと毎日過ごしていた。だから、亡くなったときに調べてみたら、貯金はほとんど残っていなかった。
「店のあったところにいってみたら、コイン駐車場になっていた。一時間二百円っていう黄色い看板を見たら、悲しくなったわ。がらんとして、殺風景で、ここが自分の生まれた場所だなんて、思いたくなかった。どんなに狭くたって、家が建っていたり、店になっていれば、人の暮らしの温かさが感じられるけど、駐車場には、何もないでしょう」
帰る家がなくなり、育った街も変わってしまった。美容院がしゃれたブティックになり、次に行ったときはカフェになっていた。古い商店が取り壊され、その跡地にタイル貼りの細長いビルが建ち、気取った名前のイタリアンレストランやバーが開店する。子供のころ毎日通った道なのに、ビルができる前にあった店のことを、どんなに考えても思い出せない。
そして、今度は、大銀杏も消えてしまう。子供時代の思い出をたどる場所はどこにもない。ただ、忙しく毎日に追われて、気づけば自分が大切にしていたものは、みんなどこかにいってしまう。自分がいるべき場所を持たない根無し草のようだ。
「違うよ。思い出っていうのは、心の中にあるものなんだ。規ちゃんが、大銀杏のことを忘れなければ、それはいつまでも存在する。本当に悲しいのはね、木がなくなることじゃなくて、木があったことを規ちゃんが忘れてしまうことなんだよ」
古屋は大銀杏を見上げた。
「この木には、子供の魂が宿っているんだ」
「白い着物を着た子供のこと?」
「それだけじゃない。八歳の坂井規子、成瀬譲、古屋祐一郎が住んでいる。ちゃんと、思い出してあげなくちゃ」
風にのってマイムマイムのメロディが流れてきた。
「さぁ、八歳のぼくたちに会いに行こう」
古屋はかばんを抱えると走り出した。
「どこへ行くの?」
「体育館」
「わかった、宝の箱を隠した場所だ」
「そうだよ。成瀬が言い出したんだ」
「行こう、銀河の彼方まで」
古屋は銀河少年リュウのテーマソングを歌っている。その声を追いかけて、規子も走った。
3
だれもいない体育館はひっそりとしていた。扉を開けると中はひんやりとして、ワックスの匂いがした。古屋は当然のような顔をして来客用のスリッパを取り出し、自分だけ履いた。規子もあわてて、履き替えた。
「靴も持っていくんだよ」
「どうして」
それには応えず、舞台の下に向かうと古屋は木製の戸を静かにすべらせた。
「なんだ、鍵もかかってないよ。無用心だなぁ」
そういうと、規子のほうを振りかえって片目をつぶってみせた。
電気をつけて中に入ると、折りたたみ椅子がしまわれており、その横にかごに入ったボールやマットが並び、奥には、運動会の玉入れ用のかごや綱引きの綱が見える。
単なる物置だ。それなのに、どうして、あのころ、あんなに心ひかれたのだろう。最初に言い出したのは古屋だった。先生が縄を取り出すのを見たのだ。
「太い縄が先生の手の中で、蛇に変わって頭を持ち上げた」
額に汗をかいて、息をはずませながら、成瀬と規子に報告した。石山という名前の頭のはげた、よく通る声をした先生だった。
「あそこは、前から怪しいと思っていたんだ」
成瀬が賛同した。
授業が終わり、みんな帰った後の体育館に、三人ででかけた。その日は鍵がかかっていた。次の日、もう一度、行ってみた。やはり鍵がかかっていた。
三日目、昼休みに一人で出かけた成瀬は、見たこともない作業服の男が二人、舞台の下に入っていくのを見たという。話し声が聞こえ、そのうち、しんとなった。成瀬は彼らが出てくるのを待っていたが、いつまでたっても出てくるようすがない。
しびれをきらしてのぞきこむと、物置はもぬけのからだった。入口はひとつだから、見間違えるはずはない。どこかに、自分たちの知らない扉があるはずだ。
三人は、何日もその話ばかりしていた。
今から考えると、成瀬の作り話だったかもしれない。そんな風に自分で脚色して、人を驚かせることが好きだった。
今、この場所は、二本の蛍光灯が明るく照らし、不可思議なできごとなど起こりそうもない。
「ずいぶんきちんとしているわ。昔はもっと、ごちゃごちゃしていたのに」
「最近、掃除したんじゃないのか。体育館も取り壊されるから荷物も、移動するのかもしれないね」
古屋は奥の壁に立てかけるようにおかれている、運動会用のボードを動かした。木の壁に作りつけになっている棚が現れた。木製の棚は古く、しわくちゃになった紙袋や角のすりきれた段ボールがいくつもおかれている。
「宝の箱は、この棚の一番下においたんだ」
段ボールの小さな箱だ。わざと古くて、汚いものを捜してきた。ふたを開けると、もうひとつ、別な箱が出てくる。こちらの方は、シールを一面にはったきれいなものだ。中に、成瀬が書いたひみつの地図と、規子が絵を描いて三人の名前を書き入れた紙、それぞれ大事にしていたものを入れた。
規子はプードルの絵のついたカードを入れた。古屋と成瀬は何を入れたのだろうか。
棚からひとつひとつ袋と箱を取り出し、中をのぞいたが宝の箱はついに見つからなかった。
「いくらなんでも、無理だよな。十五年前だもの」
「だれかに見つけられて捨てられたわよ」
捨てられたのは仕方がないが、人に見られたと思うと少し恥ずかしい。
「知らないだろう。どうしてここを選んだか」
規子は首を横にふった。
古屋はスリッパの先で床をけった。
「この下に地震対策用の地下シェルターがあるんだ。一番大きいのは永田町から赤坂見附にかけての地区にあるものだけれど、この下のもそれなりに充実している。早い時期に実験的に作ったから、作りがていねいなんだ」
「うそよ」
「だったら、聞いてみろよ。耳をあてると、風の音がする。ちゃんと通路が掘られていて、シェルターからシェルターに移動できるようになっているんだ」
「情報源は成瀬君」
「まぁね」
成瀬の店の客には、政治家や政府高官も多く、ここだけの話を聞かせてくれる。
古屋が壁に耳をあてたので、規子も真似をした。しばらくじっとしていたが、何も聞こえない。壁から離れようとすると、「だめだよ、動いちゃ」と古屋は怖い顔になって規子を引き寄せた。しかたなく、もう一度壁に耳をあて、神経を集中させると、かすかな地鳴りのような音がする。
「もっと、ちゃんと聞いて」
古屋は強い力で規子の肩をつかみ、壁に押さえつけた。古屋の顔はすぐ目の前にある。規子は息苦しくなってきた。
「来るよ。もうすぐだ」
地鳴りの音は少しずつ大きくなり、やがてごうごうという響きに変わった。
「なんなの」
「地下鉄だよ」
目を閉じると、暗闇の中に黄色いランプをともした地下鉄が見えた。地下鉄は暗い穴の中をひたすら走っている。遥か遠くを走る地下鉄の音は、急に小さくなって聞こえなくなった。
「地下鉄が駅についたんだ。ここから駅にも行けるんだよ」
古屋が指差した先を見ると、大人が腰をかがめて入るほどの小さな扉がある。壁の色と同じなので、気がつかなかった。
鍵がかかっていたが、古屋がポケットからピンを取り出して、ニ、三度回すと、わけもなく開き、かび臭い風が吹き出した。ぽっかりとあいた、
暗い穴をのぞきこむと、中は人が一人通れるぐらいの通路になっていて、地下に下りていくコンクリートの階段が見えた。
「どうする」というように古屋が規子の顔を見た。規子は怖くなって後ずさりした。
「大丈夫。ぼくと成瀬はもう何度も行ったことがある」
縄が蛇に見えてしまうような怖がりの少年が、たとえ成瀬といっしょでも、暗い地下道に降りていけたものだろうか。そもそも、十五年前の地下道が今も安全といえるのか。
「そんなこといって、今、どうなっているか、わからないじゃない」
「だから、行きたいんだよ」
古屋はバッグから小ぶりの懐中電灯を取り出して、明かりをつけた。規子は扉の奥をもう一度のぞきこんだ。懐中電灯の光が輪になって、天井を照らし、細い通路に不気味な陰をのばした。光は途中で消えて、その先は深い闇だ。
「いやだ」と言おうとして、古屋と視線があった。目がねの奥の細い目は、いらいらとした気配を漂わせ、唇をとがらせ、神経質そうに眉をひそめている。
古屋は静かな、おとなしい子供だったが、その分、心の内にためているものも多かった。何かを思いつめると、そのことばかり考えて、周りが見えなくなる。自分だけで何もかも決めてしまい、成瀬や規子がそれに従わないと癇癪をおこした。
その性格は今も変わらないのだろう。最初から、ここへ来るつもりだったのだ。鍵をあけるピンを用意し、懐中電灯も持って来ている。
「早く、靴を履いて」
規子はパンツスーツの足元を眺めた。グリーンのビニールのスリッパには、白く来客用の文字が見える。
「来なくちゃだめだよ。さっき、八歳のぼくたちに会いに行くっていったじゃないか」
「この下には、子供のころの、わたしたちがいるの?」
「ああ。成瀬もいる。暗いのは、この階段だけだ。地下鉄のトンネルを抜ければ、シェルターはもうすぐだ」
「服が汚れちゃうでしょう。困るわよ」
「昔は、そんなこと心配しなかったじゃないか」
「古屋君は、ごきぶりとか、ねずみとか苦手だったんじゃないの」
「だから、なんなんだよ。大丈夫っていってるだろう。ごきぶりなんか、ぼくたちは一度も見たことがなかったよ」
何が何でも、連れていくつもりなのだ。穏やかな口ぶりとは裏腹に、古屋の左手は少し震え、右手でそれを抑えている。
「わかった。いっしょに行くわ」
規子の声は少ししゃがれていた。靴に履き替えた。ローヒールでよかったと思った。
古屋が先に入り、規子に手を差し出した。その手をつかんで、一歩中に踏み込んだ。耳の中で何かがはじける音がした。
階段は急で、横に手すりがついている。長い間開けたことがなかったのだろう。空気がよどんでいる。壁に手をついたら、ほこりで真っ黒になるはずだ。
階段はらせんを描いて地下に下りていく。古屋の肩ごしに懐中電灯で照らされたコンクリートの階段や壁、天井が見える。
古屋は足元を確かめるように、ゆっくりと進んでいく。段数を数えていたのは、百段までだ。それから先は分からなくなった。五分たったのか、二十分なのか、それも曖昧だ。地鳴りのような地下鉄の音が近づいて、一瞬、トンネル全体をゆるがせ、また遠くに去っていった。
「後ろを振り返ったらだめだよ。怖くなるから」
すでに、入口の明かりも見えないだろう。ねばりつくような闇が背後に迫っている。首筋を冷たい汗がすべり落ちた。
「ここが、大銀杏の根元のあたりだ」
古屋は壁をたたいた。
「この前、池袋で成瀬と偶然会ったんだ。あいつ、今、どうしているか知っている?」
「知らない。啓徳小学校の人とは、つきあいがないから」
「驚いたよ。キャバレーの呼び込みをしているんだ」
ミュージシャンになると言い出して、家を勘当になった。結局ものにならず、友人と共同でバーをはじめたが、それもつぶれ、金のことでもめて、けんか別れになった。すでに父親はなく、実家の天ぷら屋も人手に渡っていた。金に困り、昔の友人に、だれかれかまわず返すあてのない借金を頼み、いつか、つきあう人間はいなくなった。今は、その日暮らしのような生活だという。
「その晩、いっしょに酒を飲んだ。規ちゃんのこと話したら、懐かしがってね、あのころに戻りたいって、しきりにいってたよ。成瀬も規ちゃんのこと、好きだったんだな」
地下鉄の音が遠くで聞こえた。
「規ちゃんは成瀬と、キスしたんでしょう」
「ほっぺたとか?」
「ちがう。大人のキスだ」
古屋は不機嫌な声で応えた。
キスにも種類があると教えてくれたのは、成瀬だった。成瀬は店の若い職人から、「大人の話」を教えてもらっていた。学校帰りの路地や、鉄棒の横で、成瀬はもったいぶって、仕入れたばかりの知識を披露した。規子には教えない、男だけのひみつというのもあって、規子がくやしがり、無理に聞き出そうとすると、大声をあげて逃げていってしまった。
「子供のキスは唇をつけるだけだけれど、大人のは違う」
冬休みも近い夕方、成瀬は古屋と規子をうさぎ小屋の脇に呼び出して解説した。クラスで飼っているうさぎが、静かに青菜を食べていた。
成瀬は紺のトレーナーの下に着た白いポロシャツのえりを立てていた。アーモンド形の大きな目がきらきらと輝いている。
「舌を使うんだよ」
それを聞いた途端、興奮した古屋が胸の前で握っていたこぶしを振り上げ、大声をあげた。規子はひとりでに頬が赤くなったのを感じて、目を伏せた。そして、そのまま成瀬の顔を見ることができなくなった。
その前の週、規子は成瀬に「キスしようぜ」といわれた。規子は驚き、それが期待に変わった。規子は夜眠る前に成瀬とのキスを想像した。成瀬が誘っているのは、規子が考えているような子供っぽいキスではなかった。口に出してはいけないような、ひみつの匂いのするものだった。
「キスなんか、するわけないじゃない」
規子は応えた。だが、自分の言葉にはっとした。忘れていた。あの日、ふたりは大人のキスをしたのだ。
「ふーん、なら、いいけど。ぼくも、規ちゃんのことが好きだったんだよ。知らなかったでしょう」
「古屋君の恋人は、ノバラ姫だと思っていた」
「ノバラ姫は、アニメじゃない。お話でしょう。そうじゃなくて、現実の人間の話だよ。ぼくは、毎週水曜日、『銀河少年リュウ』を見に、規ちゃんの家に行くのが、楽しみだった。家で一人で見ていたら、あんなに夢中にはならなかったと思う。規ちゃんの家で、規ちゃんといっしょに見られるのが、うれしかった。あの三十分間、ぼくはリュウで、規ちゃんはノバラ姫だったんだ」
古屋は番組を見た後、急いで塾に行かなければならないはずなのに、興奮しておしゃべりが止まらなくなった。そのため、塾に何度も遅刻し、それが古屋の母親に知れた。以来、規子の家で見ることは禁止され、夜、家に帰ってからビデオ録画を見ることになった。
「わたしも楽しみにしていたのよ。古屋君が来るのを」
規子はしみじみといった。
ふとん屋の二階に並んで座り、いっしょに歌をうたったことや、リュウとノバラ姫の運命について語りあったことを思い出した。子供なりに悩みや心配事があり、けっして楽しい日々ばかりではなかったが、あの頃には、未来があった。大人になれば、今よりもいいことがたくさんあり、素敵な楽しいことがあると、無邪気に信じていた。
「まさか、こんな中途半端な大人になるとは、思わなかった。できれば、あの頃に戻りたい。ずっと、子供のままでいたい」
古屋は何も応えなかったが、うなずいたように思えた。
「戻れるよ。規ちゃんが、戻りたいって思えば、いつでも。だって、子供時代は、規ちゃんの心の中にあるんだから。それなのに、どうして思い出してくれなかったの。ぼくは、クラスの子みんながぼくを忘れても、規ちゃんだけには覚えていて欲しいと思っていた」
古屋の手が規子の手をつかんだ。その指は子供のように細く、冷たかった。
足元が少し明るくなってきた。終点が近いらしい。
やがて、階段が終わり、平らな場所に出た。幅一メートル、高さ二メートルほどの窓があいていて、地下鉄の線路が見えた。ここは、地下鉄の線路沿いに掘られた坑道らしい。
線路とは壁で隔てられており、何メートルおきにか、壁が切られて窓になっている。窓から顔を出し、左右を見ると、線路の先に駅の明かりが見えた。
何度目かの低い振動音が遠くで聞こえ、それが次第に大きくなり、ごうごうという地面をゆるがせるような太い音に変化した。
「あの日、ぼくは待っていたんだ」
「あの日って」
「成瀬と三人で大人のキスの話をした翌日」
規子はぎくりとした。汗が背中から吹き出してきた。成瀬とキスをした日、何があったというのだ。
「ぼくが描いたリュウとノバラ姫の絵を、規ちゃんは見たいっていったんだ」
熱い風が窓から吹きこみ、細い通路を満たした。地下鉄が銀色の巨大な塊となって姿をあらわし、コンクリートの窓の向こうを走りぬけていった。窓は金色に明るく輝き、中に乗っている人々の表情まではっきりと見えた。スーツ姿のビジネスマンがいて、買物帰りの主婦がいる。新聞を読んでいる老人がいて、制服を着た高校生がいる。
古屋が黙ってくれればいいと思った。だが、古屋はしゃべり続けた。
「ぼくは待っていたんだ。ずっと。絵の横に、ぼくが考えた物語を書いたから、それを規ちゃんに読んで欲しかったんだ。でも、規ちゃんは来なくて、夕方になって下校の音楽がなって、それでもぼくは待っていたんだ」
規子は少しずつ思い出していた。
その日、成瀬が規子を呼びにきた。
「今日はふたりで帰ろう。古屋はおいて」
「でも。古屋君と約束しているの」
「いいじゃないか。ほっとけよ」
成瀬は大人のような口ぶりでいった。成瀬がどうして、二人で帰るといったのか、規子はすぐにわかった。大人のキスをしたいのだ。規子の鼓動が早くなって、痛いほどだった。
「じゃあ、古屋君に断ってくる」
「ばっかだなぁ。そんなことしたら、あいつ、来ちゃうじゃないか」
「でも」
約束は大切なものだと、先生に教わったばかりだった。友達との約束は、守りましょう。それが、友達の証です。一番大切なものは、約束です。先生の言葉が胸の中をうずまいた。
「規ちゃんが来ないんなら、ぼくは一人で帰る」
「ううん。大丈夫」
規子たちは古屋に見つからないように、隠れて学校を出た。校門を出た途端、規子は古屋のことを忘れた。成瀬と、これから起こることで頭がいっぱいになったのだ。
いつのまにか壁が切れて、地下鉄の線路脇の細い通路を歩いていた。通路は次第に細くなり、一人がやっと通れるほどの幅になった。壁を伝いながら歩いていく。壁はところどころ湿って、水が流れていた。指先になにか、ぬるりとしたものが触れた。虫が手の上をはっている。規子は驚いて、叩き落とした。
「シェルターは、まだ先なの」
「もうすぐだ。このまま、進むしかないんだ」
ところどころに小さな明かりがついている。壁には黒いしみができ、細く深い亀裂があって、のぞくと、光る小さな目のようなものがぎっしりと詰まっていた。
線路の間を尾の長い、よく太ったねずみが走っていく。通路の角は、もろく、強く踏むと、小石がくずれ落ちていった。線路との段差はかなりあり、落ちたら規子の腕の力では昇れそうにない。
「あの日、ぼくは規ちゃんを待って、大銀杏の下にいたんだ。遊んでいた子供達はみんな帰って、校庭には、もうだれもいなくなった。だけど、約束したんだから、規ちゃんはぜったいに来るはずだ。それなのに、ぼくが勝手に帰ってしまったら、規ちゃんが困ると思った」
遠くでうなるような音が聞こえてきた。もう、古屋のおしゃべりはたくさんだと思った。
「困ったな。地下鉄が来ちゃったよ」
虫を踏んだらしい、ぐしゃりという感触が足の裏に伝わってきた。
「隠れるところはないの」
「ないよ。このまま、ここにいて、地下鉄が過ぎるのを待つんだ。大丈夫だよ。シェルターはすぐだ。そこはすごく、楽しいところなんだ」
古屋は足を広げて立ち、壁に体を預けた。こうして、地下鉄をやりすごすつもりらしい。
指先で壁を探ると、一ヵ所、壁が飛び出している場所があった。規子は指をかけて壁をつかみ、足を開いて安定させ、背中を壁に押しつけた。
「それで、ぼくは待っていたんだ。でも、本当は心細かったんだ。風が冷たくてひざが震えた。校庭は真っ暗で、職員室の明かりが黄色く見えた。そうしたら、どこからか、声が聞こえたんだ」
遊んでよう。
最初は、ささやくような小さな声だった。
それが次第に大きくなった。
遊んでよう。遊んでよう。
だれかが呼んでいる。それは、大銀杏に住んでいるという、死んだ子供の声に違いない。
「ぼくは、夢中で走り出した。捕まったら大変だ。そのことしか、考えていなかった」
規子の脳裏に、登り坂の途中で会った子供の姿が浮かんだ。あんな風に、古屋は必死になって、坂を駆け下りたのだ。
低い振動が壁から、背中に伝わってくる。
振動はごうごうという音に変わった。線路の向こうに小さな光の点が見えた。最初、懐中電灯ほどの大きさの光は、野球のボールになり、サッカーボールになり、すぐに坑道全体を照らすほどになった。向かいの壁の黒いしみだと思っていたのは、びっしりとはりついた虫だった。
古屋は轟音の中で怒鳴った。
「規ちゃん、どうして、来てくれなかったんだ。どこに行っていたんだ」
熱い風が吹いてきた。規子のパンツスーツのすそが風をはらんでふくらんだ。
地下鉄が警笛を鳴らすと、虫たちがいっせいに飛びたち、規子の腕に、髪に、顔にぶつかった。首筋をはって、服の中にもぐりこんだものもいる。
のどの奥にすっぱいものがこみあげてきた。
目の奥が熱くなりのどの奥から、叫び声が吹き出してきそうだ。
叫んだらだめだ。
虫を吸い込まないように、息をとめ、目を閉じた。
髪を焦がすような熱い風が吹いてくる。
規子は必死で壁にはりつき、指に力をこめた。
ごうごうという、うなりは次第に大きくなる。
薄目を開けると、巨大な地下鉄の姿が目に入った。ヘッドライトはふたつの大きな目玉のように明るく輝き、その上には窓があり、黒い制服を着た運転手の姿が見える。運転手が何か叫んでいる。真っ赤な口が見えた。
うなりはトンネルの中で反響して、トンネル全体をゆるがすような大音響になった。熱風が、規子の体を巻き込むように足元から吹き上げた。
目の前を地下鉄が通り過ぎていく。腕を伸ばせば、窓ガラスに届きそうな距離だ。思わずつま先立ちになる。
地下鉄の中は明るく、座席に座って居眠りしている人やつり皮につかまって週刊誌を読んでいる人が見える。
切ないほどに、平和な風景だ。規子は、そのとき、すべてをはっきりと思い出した。
あの日、成瀬とキスをした日、家に帰ると、母親が青い顔をして待っていた。
「あんた、どこに行ってたの? 古屋君がバイクにはねられたのよ。学校の近くの交差点で。今、病院だって」
古屋はその晩、息を引き取った。規子は高熱を出し、二週間寝込んだ。そして、それきり学校に行けなくなってしまったのだ。
古屋祐一郎は、小学校三年生のとき、死んでしまった。それは、規子が約束を破ったからだ。ならば、今、ここにいるのは、だれなのだろう。規子を連れていこうという、シェルターとは、何なのだ。
地下鉄の最後の一両が目の前を過ぎていき、規子の体は大きく揺れて線路に落下した。
遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
「驚かせてごめんね」
古屋が隣に立っていた。大人の古屋ではない。小学校三年生の古屋祐一郎だった。
「だけど、さっき、規ちゃんも、子供に戻りたい。ずっと、子供のままでいたいって、いったじゃないか」
古屋が規子の腕をとった。
「わたしのこと、許してくれるの?」
「もちろんじゃないか」
「いっしょに行こうよ。成瀬もいるんだよ。昔、みたいに仲良く遊ぼう。とっても、楽しいところだから」
「そこには、大銀杏があるの?」
古屋が微笑んだ。
「だけど、明日、切られてなくなっちゃうんでしょう」
「さっき、いったじゃないか。形はなくなっても、大銀杏はあるんだよ。みんなの心の中に。ぼくや成瀬と同じように、これからは規ちゃんも心の中に住むんだ」
規子の心の中に、甘酸っぱい思いが広がった。子供に戻って、古屋や成瀬と過ごせたら、どんなに楽しいだろう。リュウやノバラ姫のように、永遠の子供になって生きるのだ。
「うれしいな。規ちゃんも、そう思ってくれて」
古屋の指差す向こうに、小さな明かりが見えた。そこが、シェルターの入口だ。古屋の後について、規子は歩きだした。
赤い小さなドアが見えた。「子供の家」と書かれたドアを開けると、中は明るく、たくさんの子供たちが遊んでいた。赤ん坊もいれば、小学生もいる。ボールを投げたり、本を読んだり、自由に遊んでいた。奥のほうで寝そべっていた少年が、やあというように、片手を挙げた。成瀬だった。
「さぁ、早く、中へ」
規子はドアをくぐろうとして、立ち止まった。かすかに何かが臭う。
ぎんなんの臭いだった。
驚いて振り向くと、明かりに照らされた古屋の顔は、土色で、唇はかさかさに乾いている。
「どうしたの? さぁ」
古屋がうながした。規子は、もう一度、ゆっくりと中をながめた。壁も床も、細いひげ根がからみあってできていた。子供たちの顔は土色で、手足はやせて細く、骨ばっている。ベビーベッドで眠る赤ん坊は、しわだらけだ。
ここは、死んだ子供の世界だ。だから、大人にならないし、ずっと子供のままいられるのだ。古屋は規子を死の世界に呼び込もうとしている。
規子は後ずさりした。古屋が腕をつかんだ。その手を振り払うと、一気に走り出した。古屋が何か叫んでいた。振り返ると、子供たちが追いかけてきた。子供たちは数を増し、規子に迫ってくる。天井からばらばらと土がこぼれ、髪に落ちた。湿った土の匂いがした。ゆるいカーブの先に地下鉄の線路が見えた。そのまま走ると、明かりが見えた。
駅だ。
規子はホームに這い上がり、階段を駆け抜けて地上に出た。
気がつくと、あたりは夜で、規子は啓徳小学校の校庭に立っていた。目の前には、地面に倒れた大銀杏が見えた。太い幹は切断され、生々しい切り口をさらしていた。巨大な泥のかたまりに見えたのは、掘り出された根っこだった。横倒しにされた根は、小山のように盛り上がり、近づくと、土の匂いがした。太い根は切断され、残った細い根はへびのようにからみあい、無数に枝分かれし、赤土や小石をしっかりとつかんでいる。
その脇には、大きな穴が空いていた。
携帯電話の日付は、翌日になっていた。丸一日、規子は地下をさまよっていたのだろうか。
風が吹いていた。遠くで古屋の呼ぶ声が聞こえたような気がした。
――了――
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