百億の本と夜と
柴崎あづさ
深夜の図書館の一角で、十七、八歳くらいの少女が一人、机に坐ってパソコンの画面を覗いている。
少女はキイを叩いてはやめ、回転椅子をぎっと回しては、またパソコンの前に戻っていく。
暗い事務室が、少女の目に映る。
本や書類ファイルがごたごたと積みあがった、図書館の二階である。一階は児童書や小説や古典が並んだ書架と貸出カウンター、二階は社会科学や自然科学、物理学、芸術の本が並んだ書架と、それらを坐って読めるソファ数脚という造りである。
少女が坐っている机は、職員たちの作業デスクの一つだった。事務室と呼ばれるその一角と、自然科学や社会科学の本が並ぶ二階書架とは、分厚いアコーディオンカーテンで仕切られている。
しかし、固いドアで仕切られているわけではないので、来館者は、コピー機を使いたいので千円札を両替してほしいとか、歌舞伎役者の伝記を探しているが見当たらないとか、地元の公民館で主催する朗読会のチラシを貼らせてほしいといったことを言いに、頻繁にカーテンをあけては職員を呼ぶのだった。だから、本を借りにくる人々はいつのまにか、二階のカーテンの奥に職員の詰め所があることを知っていく。
〈パスワードが間違っています〉
という小さな十三文字がみえる画面から少女は涼しい眼をあげて、自分が先ほどあけて入ってきたカーテンの上のほうをみやった。パソコンの画面をみているときは険しくなる目が、そのあたりを見あげるときだけは優しくやわらいだ。そこには真っ赤な顔をした鬼の面がいくつも下がっていて、薄暗い室内をくわっとした目で見下ろしていた。もうすぐ節分の季節なのである。
十人ほどいる職員が、子供たちを楽しませるために作ったのだ。少女はその様子を想像して微笑んだ。文具クリップで吊ってあるのは、ツノと面を貼りあわせたときの糊でも乾かすためだろう。明日かあさってには、「おにはそと!」や「日本の民俗学」など、節分に関する本を集めた書架のまわりに、その手作りの鬼面が飾られるはずである。
二月の節分だけではない。図書館ではちいさな行事が繰り返された。
クリスマスにはモミ木に豆電球が点滅して児童書コーナーを彩り、イエス生誕の紙芝居を職員が読みきかせた。七夕の季節には日なたの匂いのする笹の葉が、書架の脇からふわりとさがった。色とりどりのマジックと短冊が丸テーブルの上に置かれ、ランドセルを椅子に放り出した子供たちが一心に願いごとを書いた。
「こんどの席がえでXくんの隣にすわれますように」「おこづかいがあがりますように」「先生にしかられませんように」といった願いごとが、七月七日が来るたび笹の葉から下がった。「夏休みにたくさん本が読めますように」と、少女は短冊にピンクのマジックで書いて、ぶら下げた覚えがある。
鬼の下がったカーテンの手前のラックには、要修理と書いた紙が下がり、古そうな本が束ねてある。バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」。マーティン・ハンドフォートの「ウォーリーをさがせ」。ピーターラビットのシリーズの、端のほとびた絵本も見える。
少女はどれも、この図書館で読んでいた。ひとりっ子だったため、兄や姉からのおさがりの絵本が家になかったのである。また、少女は本が好きというよりも、たくさん人がいるのに静まりかえっている図書館の不思議な雰囲気が好きだったので、本は本屋で買って読むよりも図書館のすみでぼんやりとページをめくるほうを、好んだ。
『さし絵のついてない本を読むなんて、お姉さんたら、何がおもしろいのかしら?』
〈お姉さん〉が読んでいる本をのぞきこんで不思議がったのは、「不思議の国のアリス」だったろうか?
それを読んで以来、絵本を見るのはアリス、文字の本をめくるのはアリス姉というイメージがある。
字だけの本を読めば、アリスの姉のような大人っぽいお姉さんになれるのだと、外国の少年少女小説を借り続けた時期もあった。
クラスの女の子は皆「赤毛のアン」をこぞって借りたけれども、少女はアンが「女の子のプロ」という感じがして、あまり好きになれなかった。女性の書いた話だから確信犯だと思う。
ケストナーの「点子ちゃんとアントン」や「ふたりのロッテ」のように、男性の書く女の子のほうが凛々しくて、好きだった。きっと生活感のただようストーリーはあまり好みでなかったのだろう。井伏鱒二の名訳で楽しめる「ドリトル先生」シリーズでは、動物と人間があたりまえのように話し、一緒に旅するところにわくわくした。
本がある場所なら何処でもいいというわけではない。この図書館の居心地がよかったのだ。
学校の図書室とは違って、あの本を読めこの本を読めと指導する、口紅の真っ赤な司書の先生もいない。ひなまつりにはひな人形、七夕には笹の葉といった手作りの飾り物が並んでいてにぎやかだし、昔の木造校舎を改造したという図書館はいつ行っても木の匂いがした。床も木でできていて、木と本は字づらだけでなく匂いも似ているから、そこにはひとつの統一された世界があった。
六時にしまる市立図書館も多いなかで、この市立図書館は八時まであいていた。子供の姿が消える夜からは、会社帰りらしい男女がスーツ姿で駆け込んできて、ミステリーやベストセラー小説を借りていった。
その八時をとうに過ぎて、少女はひとり、図書館二階の事務机に坐っている。
古い木造の建物とあって、風がときどき、窓ガラスを鳴らした。そのたびに少女がはっとしてあたりを見回すのは、彼女が内緒で忍び込んできた者だからである。その証拠に、電気を点ければまだしも室内の雰囲気が明るくなるものを、少女は明かりが外に漏れるのを恐れて、手元から懐中電灯を照らしてパソコンの画面を覗いているのだった。
――ついに限界に達したのか、少女は伸びをして椅子から立った。
あいかわらず、暗く静まりかえっただけの部屋であることにほっとするような笑みをもらしてから、腰をかがめて机と同じくらいの高さになった。
そのまま、そろそろと奥の給湯室へ向かう。職員が休憩するときに飲むのだろう、食器棚脇のシンクに、魔法瓶や、インスタントコーヒーの大瓶が置いてある。
少女は少し考えたあと、頭を低めたままの格好で水道の蛇口に手をのばし、ちょろちょろと水を出した。
それを手ですくって飲んだ。
ふうっと息をついて、また机の並ぶ脇を歩き、例のパソコンの前に戻った。
画面には変わらず、「パスワードを入れてください」という文字が光っている。
このパスワードが分からずに、少女は一時間以上も前から、数字を打ち込んだり、アルファベットを入れたりして、そのたび侵入を拒否されているのだった。
二日ほど前の日曜日、少女は本を読んでから家へ帰ろうとして、入り口の貼り紙に気づいたのである。真新しい貼り紙には、こう出ていた。
”いつも当図書館をご利用いただき、ありがとうございます。
当図書館は、三月一日より九月三十日まで休館いたします。改修工事のためですので、再開館後は、皆様にいっそうの便宜をはかれることと思います。ご了承ください”
いっそうの便宜って何だろう、と少女は少し期待した。
古い建物のせいか、コピー機に百円を入れると釣銭が出てこなかったり、洗面所の水が流れにくかったり、窓ガラスが子供にいたずらされて外れかかったりと、小さなトラブルの絶えない図書館でもあったからである。
中へ戻ると、老人たちが職員に文句をいっていた。会社を辞めて、毎日のように本を読むのを楽しみに通ってくる人たちである。半年も休館するなんて不便じゃないかという彼らに、職員は、木造で老朽がひどいため仕方がないのだと、申し訳なさそうにカウンターで応対していた。
たしかに、台風がくると窓ガラスだけでなく床までがたがたと鳴る。本棚は赤茶けた手垢がつき、ときどき倒れそうにきしむ。ここで借りると最新のベストセラー小説さえ古臭い本のように感じるのだと、文句をいっている人を見たこともある。
――改修すれば、鉄筋二階建てになりますから。ほかの分館ともネットワークで結ばれて相互貸し出しができますし、将来的にはインターネットも入れられて、おうちからご予約できるようになりますから。その準備で一時休館を……
――あの。
そのとき近くにいた女が、職員の懸命な説明を遮った。
――では、今ある形ではまったくなくなってしまうというわけですね? それなら、ここで今まで借りた本のリストを記念にとっておきたいので、タイトルだけでもプリントアウトしてもらえないでしょうか。
女はいった。職員はきょとんとした。
女は上等そうなスーツのポケットから名刺を出して、自分は近所に三年前から住んでいるのだといった。名刺の名をみたとたん、職員は「ああ、ノンフィクション作家の……」と、覚えのあるような顔になった。女は続けた。
――とにかく筆名さえ名乗ればわかってもらえるくらいにまで自分を育ててくれたのはこの図書館だ、先輩作家のもとで修業をしているときは貧乏で、本を書くときに必要な資料を本屋で買うこともできなかったのだから。女は恥ずかしそうに言った。
そうですか。ありがとうございます。でも、これまでお借りになった本のデータは、プライバシーですのでお渡しすることができないのです。
職員は名刺を女に返しながらいった。これには女だけでなく少女もびっくりした。
――プライバシーっていったって、自分が借りた本なのに。自分でどんな本を借りたのか、自分で知ることもできないの。
それは、申し訳ないですが、読書ノートでもつけていただいてご自分で管理していただくしかありません。
納得できない説明の仕方だった。そばで聞いていた少女も、やや反感を覚えた。
――自分で読書ノートをつけるほどマメな性格だったら、物書きやってないわ。
女はぽつんとつぶやいて、貸出カウンターから離れていった。
この図書館が壊されてしまうことに、少女は一抹の寂しさを覚えた。そして、生まれて初めて見た”作家”に興味を思えて、いったいどんな本を借りるのだろうと、そっと後をつけた。
しかし、”作家”は本棚ではなく、奥の閲覧席によりかかっている、大きなリュックをかついだ男のそばへ行った。
――どうだった?
男は訊いた。女は肩をすくめた。
――うーん、駄目だって。何を借りたかはプライバシーだからって。
ふうん。まあ、いちおう、図書館で何を借りたかは市民の最高機密のひとつだからなあ。
――そうなの?
だからこそ、まったく消しちゃうわけはないと思うんだ。どっかにとってあるさ。館長のパソコンとかさ。
――それだってパスワードとかで厳重管理でしょ。
こんなちっぽけな図書館、大したパスワードじゃないぞきっと。館長の名前とか、図書館の名称とか、図書館の電話番号とか。
――そんなこと、大声で言っちゃ失礼よ。あ。
女は男の肩についている糸くずをつまんで取った。男は「サンキュ」と小さくいった。結婚したばかりのカップルのようにも、砕けた仕事仲間のようにもみえた。
好奇心に目を輝かせている少女の脇を通り過ぎ、”作家”は書架を巡りながら数冊の本を取り出して、貸出カウンターへと運んでいった。
「沈黙の春」「夜はまだあけぬか」「なぜ世界の半分が飢えるのか」「オリンピックの黒い罠」――といった本を次々カウンターに置いていく”作家”の横顔をみているうちに、少女は突然、この美しい人に、彼女がこれまでどんな本を借りてきたのか、どうにかしてデータを盗み出してプレゼントしてあげたいと思ったのである。
本を積み重ねた上に差し出された、黄色い貸し出しカードをこっそり見て、”作家”の本名を頭に入れた。
あとは勇気が必要なだけだった。
次の日は定期休館日の月曜だったので、翌々日に決行した。夜、家を抜け出て図書館まで走った。裏庭へ回り、一階の窓を二枚、窓枠からはずす。枠を越えて中に入り込んでから窓をもとどおりにはめておく。それから、持ってきた懐中電灯で階段を照らし、二階の事務室へ侵入した。自分がとんでもなく馬鹿馬鹿しいことをしているようにも思えたが、本を盗むわけではないのだからと言い聞かせた。子供のときから利用している図書館なので、職員とは顔見知りだった。まんいち職員に見つかっても自分が空き巣でないことくらい、顔をみればすぐわかってくれるだろう。
――閉館してから一時間はたっている。
少女が坐ってみた机は、事務室のいちばん奥にあり、この図書館で最も地位が高い者が作業する上座のはずである。隅に鎮座する職員用エプロンのポケットには、「館長 江波陽子」という名と、おそらく五十代と思われる女性の顔写真が貼ってある名札が入っていた。
ここが館長さんの机だ。そう思い、机上のパソコンに電源を入れてすぐ、館長の名――「ENAMIYOUKO」を、パスワード欄に打ってみたのだ。しかし、
「パスワードが間違っています」という文字が出て、それ以上のことは何も起こらなかった。
図書館の電話番号を入れた。名称を入れてみた。エドガー=アラン・ポーの「黄金虫」の主人公になったつもりで、名前のアルファベットの母音と子音を入れ換えて打ってもみた。
しかし、パソコンは秘匿データを明かしてくれなかった。どうしていいかわからないまま座っているうち、暗いなかで見ているせいか目が痛くなってきた……。
少女はため息をついて、出入り口を見やった。
あたし、考えすぎてるんじゃないのかな。
答えはもっと、簡単なところにあるんじゃないのかな。
鬼の面に、懐中電灯を照らしてみる。鬼は光の当て方で自分を哂っているようにも怒っているようにもみえる。ふと、パスワードは毎月変えているのではないかと思った。名前にしたときもあったろうけど、自分が館長だったら、やっぱり変えるだろう。大切な本を守りたいからだ。
今は、二月。英語で「FEBRUARY」と入力してみた。リターンキイを押す。
パスワードが間違っています、と出た。
ため息をついて、文字を打っていた。「ONIWASOTO」(鬼は外)という、館長の机の本立てにある本のタイトルをなにげなく打ってみたのである。
突然画面が明るくなった。<開けゴマ>と呪文をかけたようだ。
「F1書籍検索」「F2登録者検索」……「F10印刷」と、ファンクションキーの説明が画面に並ぶ。F2を押した。空欄が映った。登録者の名前を入れてください、と指示が出る。そこで”作家”のフルネームを入れると、じいっとハードディスクがうなったあと、こまかな字が羅列されている画面がめくれてきた。
「F10印刷」を押す。やがて、ケーブルでつながれている印刷機が唸りをあげて、紙を吐き出してきた。
走り、五枚にわたる印刷紙をざっと見た。わくわくするようなタイトルが並んでいる。
どうやって渡そう。図書館にはしょっちゅう来ているようだったから、待ち伏せてもいいだろうか。
あのひとは驚くだろう。どうやって手に入れたの、と聞かれたらどう答えよう。忍び込んでパスワードを破ったといったら、怒るだろうか。でもあたしにだけは怒らないという気がした。
とにかく今は見つからないうちに出ようとして、ふと、自分が借りた本も、リストに出してみたくなった。
少女は胸をどきどきさせながら坐り直し、「松本千穂」と自分の名を入力してみた。
はじめのうちは、かつて借りた覚えのある本のタイトルが次々と表示されることに言いがたいなつかしさを覚えた。生まれて初めて借りたのは「でぶの国、のっぽの国」だった!
「ピーターラビットあそびましょ」「いやいやえん」「ごんぎつね」「せんせい、けらいになれ」「一年生になったら」「魔女ジェニファとわたし」……
本が時間をつれてくる。一年生、三年生、中学に入ったころ……。
貸出データは、年代順に表示されるようだ。上から下まで順々にみていくと、徐々に大人っぽい本を借りていっていることがわかる。
SFを次から次へと借りているのは、中学生のころだろうか。高校に入ってからは、借りる本は少しずつ少なくなっていった。
そういえば、このあいだ貸し出しカウンターまで行ったとき、カードを探した。鞄にしまっておいたはずの貸出カードが、いつのまにかなくなっていた。
どこかに落として、そのまま気がつかなかったのか。
いつ、どこで落としたか、少女はどうしても思い出すことができなかった。
貸出カードに命があるわけでもないのだが、ずっと肌身はなさず持っていて分身のように思っていたカードの存在を忘れていたことに、カードがかわいそうでたまらなくなった。
いちばん最近に借りたのはSFだったと思う。だから、貸出履歴は「アルジャーノンに花束を」あたりでとまっているはずである。そう思ってパソコンの画面を次々繰っていた。途中からあれれ、と指が止まった。
「はじめてのメイク」「素敵なネイルアート」「私立大学学食めぐり」「ヘルマンヘッセ全集1」「就職しないで生きるには」「仕事!」「面接に役立つ百の心得」「秘書検定に受かるには」「結婚式のスピーチ集」
借りたおぼえのない本のタイトルがずらずらと並んでいる。
しかも、いちばん最近に借りた本は、
「三十代は女の旬」「出産のすべて」
「子づれでトクするレストランガイド」
こんな本を、あたしが借りるわけないじゃないの!
少女はわけのわからない怒りで、ひとりで真っ赤になった。
いっそ抹消してしまいたいが、デリートキイを押しても画面の文字はピクとも動かない。きっとプロテクタが掛かっているのだ。
自分のほかに「松本千穂」という名をもつ、三十代の女性利用者がいるのだろうか。
そう思って再度検索したが、「松本千穂」の名はひとり分しか出てこない。
パソコンが壊れているのだろうか。データの一部が欠損しているとか、他人のものとごちゃごちゃになっているとか、ありえるのだろうか。
ためしに母親の名を入れて検索してみた。「百円でできるご馳走おかず」の次に、
「離婚なんて怖くない」
「女ひとり、いきいき人生再出発」
というタイトルがみえ、あわてて画面を切り替えた。
お母さんったら。
母親の顔が思い浮かんだ。
借りた本のデータは「重要なプライバシー」だと職員がいっていたのは本当だ。
その人が何を考えてどう生活してきたのか、借りた本のタイトルを見ただけでわかってしまう。プリントアウトなどして外に出せないと、かたくなになる職員の態度もわかるような気がした。
少女は立ち上がり、パソコンの電源を切った。こんなことをして遊んでいる場合ではない。
お母さんは、離婚を考えている。
きょうの夕飯のとき、お母さんはいつものとおりにこにことよく喋り、お父さんはいつものとおり、テレビのニュース番組を見ながら夕飯の箸を運んでいた。
明日もあさっても変わらず続いていくと思い込んでいた家族の風景が、もしかしたら変わってしまうかもしれないのだ。
少女は〈作家〉の貸出履歴データをプリントした紙を丁寧にたたみ、手の中に持った。
空いた手で、懐中電灯を照らす。
運動靴の底に泥でも着いていなかったろうかと机の下に這いつくばったとき、電話のベルが鳴った。 はっとして懐中電灯を向ける。窓際の四角い機械から、かたかたと紙が吐き出されていくのがみえる。ファクシミリだ。
突然、自分宛だろうかと思った。どこかに松本千穂という、もうひとりの自分がいて、どこかからメッセージを送ってきているような気がしたのだ。
怖いと思ういっぽうで好奇心がつのる。しばらく立ちすくんだあと、ついに好奇心が勝った。
そろそろと、音の鳴りやんだファクシミリに近寄る。
受信紙をつかんだ瞬間、出入口でカーテンを引きあける音が響いた。
「だれっ」
少女は思わず叫んだ。
壁のスイッチを入れる音がして、蛍光灯が点いた。
しらじらと明るくなった事務室の入り口に、若い男がひっそりと立っていた。
「……だれですか、あなた」
男は驚いたようにいった。
男の、つばの浅い帽子の下のひたいには、十文字型の赤い傷あとがついていた。ナイフでえぐられたような深い跡だ。
がっしりとした首の下は、紺色のジャケットを着ている。黄色いシャツを中にあわせている。ズボンも同じ紺色で、透き通るような青白い手にはトランシーバーのようなものを持っている。
「……近くに住んでいるんですけど……」
少女はどきまぎしながら呟いた。
男は眉をしかめて少女の手もとを見た。少女も自分が機械から契り取ったばかりのファクシミリ用紙を見た。つい、目が文字の上を走る。
『江波陽子館長様 いつもお世話になっております。
回答が遅れましてすみません。本日夜七時五十五分にご連絡を受けました電算システムの不具合は先ほど解消されました。原因は……』という、専門用語の並んだ文章が記されている。末尾に、
『本日はこれで帰らせていただきますが、また何かありましたらいつでもご用命ください。富士見電算処理サービス梶xという文字と、会社のロゴと電話番号がみえる。
こんな時間まで仕事をしている人もいるのだと、少女はほっとして、紙をファクシミリの受け口に戻した。
「あなたこそどなたですか。どうやって入ったの」
気持ちを切り替えて、男に尋ねる。
「どうやってって……。あなたは? 僕が来たとき、玄関には鍵がかかっていました」
「あたしは窓ですけど」
「窓?」
「はい。外から雨戸をあけて、窓の端と端に手をかけてがたがたゆすったら、鍵がかかったままですぽっと枠から外せたんです。前に子供がいたずらしているの、見たことあったの。真似してやってみたらできちゃったんです」
「それは何とかしなきゃいけませんね」
男はズボンのポケットに手をつっこむと、金属のぶつかりあうような音をたてて近づいてきた。少女は不思議に怖いという感じがしなかった。ちらりと書棚を見渡した表情に、どこか本好きな感じを見てとったからである。
「僕は警備会社の者です」
男はポケットから鍵束を出して少女の前に証明書のようにぶらさげた。
「この図書館の合鍵をあずかっているのです。平日は八時半、土日は五時半で職員の方は帰るのですが、その後に鍵を壊した侵入者がいたり、空調やコンピュータの電源を入れたりすると、床のセンサーが反応して、詰め所のベルが鳴る仕組みになっているんです。うちの親会社がこの遠隔システムを開発しまして、ずいぶん色々な官公庁や企業ビルに営業して、導入させてもらいました。おかげで建物の中で番をしなくても、オフィス荒らしをつかまえることができるようになったんです」
「じゃあ、そのおでこの傷は、歴戦の跡ですか」
少女はつい、楽しくなってきいた。
「そうです。ご名答です」
男はちょっと誇らしげに微笑み、鍵をポケットに戻した。時計の音がきこえるだけだった静かな事務室に、生気が流れ込んできたような感覚があった。男は生き生きと続けた。
「ベルが鳴るとまず責任者の家に電話をするのですが、こちらの館長さんのお宅にかけてもどなたも出なかったので、直接来てみたのです。もちろん、責任者なんかが来る前に、机のなかから百円玉とか五百円玉とか持ち出そうとする空き巣をつかまえたこともあります。この図書館でも、コピー機のコイン口に小銭がたまっていたりしますからね。机にタバコ銭を置きっぱなしにする人も、どこの会社にもいますからね。そういう小銭を、夜中のビルからビルへと渡り歩いて集めると、結構な稼ぎになってしまうようなんですよ」
「夜中のお仕事」
「僕もそうです。ベルが鳴ると、どこの建物かすぐわかる仕掛けになっていますから、その夜の当直社員のひとりが現場に急行して、侵入者を捕まえるんです」
「今夜はあなたがあたしをつかまえるの?」
「その前に、ご両親に連絡しないと」
男は長いまつ毛の目を伏せた。
「僕らは警察ではないから、逮捕ってものはできないんですよ。悪質ならば捕まえてから警察に突き出しますが、あなたの場合はそういうわけでもなさそうだ。バッグも何も持っていなくて手ぶらだし。どうしてこんなことしたんですか」
少女は唇を噛んで黙った。
「たとえ何も盗っていなくても、こんどから気をつけてくださいねさよならっていうわけにいかないんですよ。もう少ししてから再度、館長のお宅に電話をかけます。館長さんが来るまでここにいてください。そのあいだにご両親に厳重注意させてください」
「うちの両親、離婚するかもしれないんです」
「それとこれとは関係ないでしょう。同情をひこうったって駄目ですよ」
「そんなこと考えていません。あたしは何も盗んでいないし、もう出ようとしていたところなんです。お願いです。家には連絡しないでください」
少女が懇願しても男はうなずかなかった。上着の内ポケットを探り手帳を突き出した。
「……連絡先を」
ついに観念したのだろう、少女はデスクのペン立てに突っ込んであったボールペンをとり、男の突き出した手帳に十桁の数字を記した。
「……市内ですね」
少女はうなずいた。男は大きく息を吐き、トランシーバーのように大きな携帯電話を持ち直すと、番号を押した。
「おかしいな。誰も出ない」
男は手帳をみてかけなおしては、首をひねっている。少女はほっとした。
「うち、両親も不良なんです。きっとどこかへ遊びに行っているんだわ」
「こんな時間に? おい、大人をからかうとしょうちしないぞ。本当に君の家の電話番号なのか」
「そうよ! あたしの家よ!」
少女は手を叩いて笑った。男は携帯電話を机に叩きつけた。
「子供だからって甘くみたらつけあがって。じゃ、警察に電話する」
「やってごらんなさい」
男が携帯電話をふたたび取りあげた隙に、少女はカーテンをあけて階段を駆け下り、書架の並ぶ一階奥へと走った。
窓枠に飛びつき内鍵をあける。窓を開けたとたん、冬の外気が流れ込み、中にこもっていた本の匂いを散らした。
枠に手を着いて飛び降りようとしたとき、足が凍えたように痺れて、うまく動かないことに気づいた。
焦って動きを止め、後ろをふりかえった。
階段を下りてくる音がしない。駆けてくる気配もない。
暗い図書室に、ただ、時計の音だけが響いていた。
「おーい。警備員さあん」
少女はかぼそく呼んだ。返事はない。
しばらく窓枠に腰掛けて、足をぶらぶらさせて待ってみたが、男が来る気配は、やはりなかった。
窓にかかっている薄手のカーテンが、夜風でひどくふくらんだ。少女はくしゃみをして窓枠から下り、窓を閉めた。
「この図書館で悪いことしてるのは、あたしだけじゃないわ」
言い訳のようにつぶやいたのが、本と本に反響して思いのほか大きかった。
「あたしの名前は松本千穂よ。データをみるかぎり、この図書館に登録している松本千穂はあたしひとりよ。でもね、どこかで貸出カードを落としてしまったみたいなの。どこかのおばさんがそれを拾って、あたしになりすましていろいろな本を借りてるのよ。出産のすべてとか仕事でうまく行く方法とか、そんなつまんない本。ねえ、他人になりすましてなにかするってのも、いけないことでしょ。あたしより悪いかもしれないわ」
反応はなかった。少女は本棚と本棚のあいだを抜けて、手すりに手をすべらせながら二階への階段をのぼっていった。
カーテンと壁のすきまから、事務室のあかりがもれていた。少女は思い切って中へ飛び込み、給湯室へ駆け込んだ。
「寒いわね。どうせばれちゃったんだし、コーヒーとか淹れましょうか」
「いいね、松本千穂さん」
という声がきこえた。おそるおそる顔を出すと、男がデスクの椅子に座り、腕組みをして、赤い目をこすりながらこちらをみていた。
魔法瓶にはぬるい湯が残っていた。籠に伏せてあったカップにコーヒーの粉を入れて湯を注ぐと、どうやら二人分のコーヒーが入った。
持っていくと、男はカップで手をあたためるようにして、それを飲んだ。寒かったのだ、と千穂は思った。
「警察には連絡しない、んだ」
しばらくしてから尋ねてみた。
男は苦笑した。
「……いいさ。なんだか馬鹿馬鹿しくなった。こんなちっぽけな図書館に金目のものなんかあるわけないし。金庫があるわけじゃないし」
男はつぶやいてコーヒーを飲みつづける。
「でも、本があるわ。ここ、五万冊所蔵してるって、前にパンフレットに書いてあるの、見たわ。一冊が二千円だとすると、えーと、ぜんぶで」
「一億円」
男は即座にいった。
「なあんだ。それだけ? あたし、この図書館の本はぜんぶで百億円ぐらいかなって気がしてた」
「どっちにしても、一生かかっても稼げない金の中で安物のコーヒーを飲んでるのって、なんだか変な気分だな」
「ほんと。ねえ、警備会社の社員って、お金、もうかるの? 一生はたらいたら、どれぐらいたまるの」
「知らないよ。俺、計算なんかしたことないもん。一生、勤める気なんかないし」
男は仕事から解き放たれたのか、はればれとした顔になっていた。私をつかまえないと会社をクビになってしまうのではないだろうかと、少女は逆に心配になってきいた。
「そしたら、あんたのせいだって、さっき書いてもらったとこに電話をかける。出るまでかけ続けてやる」
「いやがらせ」
「うん、最低」
男は笑った。
「俺は本を読んでいていいんだろうか」
ふいの質問だった。少女は男の意図をはかりかねて、「いいんじゃない、べつに」と呟いた。それを聞いた男の表情をみていて、はるか彼方から、世界が両手を広げて押し寄せてくるような感じを覚えた。
照れくさく、少女はわざと現実的なことをいった。
「ねえ、あたしが入り込んだのは十時過ぎよ。ふつうの泥棒なら、とるものとってすぐ出ていっちゃうよ」
「そうなんだよなあ。ちょっと、寝ちまったの。ベルがずうっと夢のなかで鳴っていて、気がついたら十一時を回っていた」
「ふつう、とっくの昔に逃げたあとだよ? ぜんぜん、間に合わないよ?」
「でも、念のため来てよかった。あんたに会えたし」
「ふふ。見逃してもらったお礼に、いいもの、あげましょう」
少女はポケットから、〈作家〉に渡そうと先ほどプリントアウトした、作家の貸し出し履歴データの紙を出して広げた。
「これ、この街に住むノンフィクション作家が、修業中に借りた本なんですって。さっき、警備会社に一生勤める気はないっていったでしょ。市内で働いている人なら、市立図書館の本は好きなだけ借りられるわ。ここに載っている本をぜんぶ借りて勉強したら、あなたもノンフィクション作家になれるわ、きっと」
「なんだよ、ノンフィクション作家って」
「本当のことを書く人。あなた、いろいろな冒険、していそう」
少女はとても意地悪な気持ちになってそういった。
「『ルポルタージュの方法』『簡潔な日本語表現』『経験を生かして書く』『警察取材の秘法』……へえ、面白そうだ」
男はつまらなそうに紙を置くと、「さあ、帰るかな」と伸びをした。
「うちの警備会社、車ですぐ近くだから一緒に来るか? カップラーメンぐらいだけど夜食があるし。こんな時間まで起きてたら腹減ってるだろ」
「うん。待ってて。今、カップ洗っちゃう」
少女は事務室の隅に行き、ファクシミリの受け口から、<富士見電算サービス>からの紙を取り上げた。用紙の末尾には、富士見電算サービスの電話番号が記されている。
「さっきはごめんね。この会社の電話番号をあなたの手帳に書いてみたの。うちの番号はぜんぜん別。布団が空になっているのに気づいたらお母さん、心配するから」
明るくいって、紙をみせようとふりかえった。男の姿はどこにもなかった。
「……お母さん、心配するから、もう家に帰らないと……」
少女は言い残した言葉をぼんやりとつぶやいて、ファクシミリの受け口に紙を戻した。気を悪くさせてしまったのだと、ひどくがっかりした。
机に残されたカップを取り上げる。男がほとんどコーヒーを飲んでいなかったことに気づいた。洗おうと、給湯室へ行った。
静まりかえった部屋に、食器を洗う音だけが響く。
きちんと拭いて、食器棚にしまった。
懐中電灯を照らして階段を下りる。
もしかしたらあの男が、ふざけてどこかに隠れているかもしれないと、暗い書架へと光を向けた。途中で手が止まった。
自分の立っている床が、黒ずんだ板ではなく、無機質なタイルのように感じられたのである。書架の奥に広がる壁は虫の喰った羽目板ではなく、鉄筋の建物のようなコンクリートだ。
まるで階段を下りてくるあいだに、新しい建物に生まれ変わったみたいた。ここが一年後だったとしたら、あたしはどうすればよいのだろうと、千穂はどきどきしながら懐中電灯をあたりにめぐらせた。
書架から書架へ走らせてみた光が、一冊の本をとらえた。光の輪に次々浮かびあがった文字の中で、その本の背表紙だけが、少女の目には、浮き上がったようにみえた。
書架に近寄り、本を抜き出す。
「百億の本と夜と」
作者名はみたこともきいたこともない。
しかし、タイトルに覚えがあった。
さっき、あの男に、「この図書館の本はぜんぶで百億ぐらいするのかと思っていた」――そんなふうに言ったのは、自分ではなかったか?
不思議な符牒を覚えて、本の真ん中あたりをめくってみた。
中味はもと警備員だった青年の、夜の街の冒険譚のようである。
デスクの机から小銭を盗もうとしていたオフィス荒らしと殴りあったこと、体を鍛えようと剣道場に通ったこと、深夜のアスファルトを走ったこと、そうして捕まえた犯人がまったくの人違いで土下座して謝ったこと、歩道に落ちていたビール瓶の破片でひたいを切り何針も縫う羽目になったこと、ベルの鳴らない夜は退屈なようなくつろいだような不思議な気持ちでカップラーメンをすすって過ごしたことなどが、胸のどきどきするような筆致で書いてあった。
奥付の右ページが、「あとがき」になっていた。
なぜか怖くてそれをみることができず、いちばん最初のページをめくってみた。
――松本千穂に捧げる――
その一文が目に飛び込んだ。一ページめには、その献辞のみが記されていた。
千穂は、思い切ってあとがきを読んだ。
「この本は、僕がA警備会社を辞める直前の、二〇〇一年二月から書き始めたものである。
ある夜、詰め所でベルが鳴った。市のはずれの、今はない老朽化した市立図書館に、何者かが侵入して電気を使ったことを報せるベルだった。
僕は寝ぼけていたために現場に向かうのが遅れ、着いたのは十二時を回っていた。二階へ駆け込むと、ひとりの少女がパソコンの前にいて、ファクシミリの紙やら、利用者の貸出履歴データやらを引き出して遊んでいた。
なんだか図書館の精みたいにみえて僕は捕まえる気をなくして少女と楽しく話した。松本千穂と名乗るその少女は、どこかのノンフィクション作家が借りたという本のリストを僕に押し付け、おせっかいにも、作家になれと僕にすすめさえした。僕が呆れて突きかえそうとしたそのとき、少女は突然、消えてしまったのである。
幽霊だったのだと思う。松本千穂という名を覚えていたのであとで調べてみたところ、彼女は高校三年生の冬に、図書館の前の路上で、顔もわからないほどの無残なひき逃げをされたことがわかったからである。
家に線香をあげに行ったとき、事故のことを母親からきいた。母親は、娘が亡くなったことがどうしても信じられず、娘の遺していった貸し出しカードを用いて、娘が生きていたら借りただろう本を、娘の成長にあわせて娘のかわりに借りては返していたそうである。
夕食も、娘の亡くなった火曜日は娘の分も用意してテーブルにのせているのだといった。僕が訪問したのは火曜日だったので、僕はそれを美味しくいただいてしまった。
同じ化けるのなら加害者の運転手の枕もとにでもひゅうどろどろと出ればいいものを、彼女はなぜそれをしなかったのか?
その答えは、あなたがこれまで読んできた本、そして、未だ読まれない本の中にあると思う。僕はそんな本を書ければいいと思って書き始めた。きっと、彼女は市立図書館のなかで生きているに違いない。僕は彼女がどこかで読んでくれることを信じて、この本を日本じゅうの図書館に寄贈することにした。
追記
こんな殺風景なノンフィクションが、なぜ「百億の本と夜と」というタイトルなのか? それは、僕と松本千穂とのあいだだけの秘密である。
完