人間の首を絞めるこつと、万力の要領は似ていた。
 万力は、挟みこんだものの手応えを感じながらレバーをじわりと回していく。充分に固定されたと思ってもさらに半回転、そして四分の一回転と締め上げるのだ。そうやって固定されたものは微動だにしなくなる。
 首の筋肉も、絞めはじめは動脈の流れを確保しようとして強ばる。だが、ほとんどの人間は首の筋肉を鍛えてはいない。三〇秒を待つこともなく筋肉は硬さを失っていく。本格的に絞めつけるのはそれからだった。
 いま標的となった男の首に巻かれた紐が、少しずつ皮膚の内へと食い込んでいくのがわかる。やがて男は堪えきれずに「あっ、あっ」と息を継いだ。だが、息を漏らすことはできても、新鮮な空気を吸うことはできない。苦しさのあまり、首の皮膚をかりかりと爪で掻きむしりはじめる。まったく無駄な行為だった。紐はすでに首の肉の奥へとめりこんでいるのだ。
 脳への酸素供給を絶たれると、人間はこうももろく生命の危機にさらされるということを、新堂直也はこの仕事を始めてから知った。深呼吸をしたあとで息を止めれば、二分はもつだろう。だが、突然首を絞められると、意識を失うのはものの一分だった。それからさらに三分絞め続ければ、確実に息絶える。
 今夜の相手も一分を待たずして動きが鈍くなった。はじめのうちこそ釣り上げられたばかりの魚のように激しく抗っていたが、急速に抵抗力を失った。
 やがて、男の全体重が新堂の両腕にずんとのしかかった。「落ちた」瞬間だ。
 新堂は即座に背を向けると、背中を合わせて相手をおぶった。男の両足は力なく宙を漂っている。こうすれば腕の力で無理矢理絞めつけなくても、自らの体重で紐が自然に首へ食い込んでいく。
 新堂は辺りの様子を窺った。ほとんど人通りのない時間だったが、新堂は念のため男を背負いながら木の影へと歩いた。万が一、誰かが来たときに身を隠すためだった。池袋からさほど遠くない音羽通り沿いの寺は、確かに殺人に適した場所といえた。
 新堂は腕時計を見た。デジタルの文字盤は十一時半をさしていた。男の首を絞めてからちょうど五分たったころだ。
 新堂は紐を握っていた手を緩めた。
 重たいものが崩れ落ちる鈍い音がした。
 寺に植わった木々の樹液を吸う蝉たちの鳴き声が一瞬やみ、構内は静まりかえった。
 新堂はゆっくりと振り返ると、死んだばかりの男の顔を見た。
 小柄な体格だった。四十代後半に見える年齢は自分とさほど違わないだろう。携帯電話の静止画像で見た男の目は、眠そうな一重だったが、今は充血した両眼がこぼれ落ちそうなほど開いていた。その表情は「なぜなんだ」と驚愕しているように見えた。まさか、今日が人生最期の日だとは夢にも思わなかっただろう。地味なスーツを着ているのは、再就職探しで会社を回ったのかもしれない。男は左手の薬指には指輪をはめていた。結婚しているようだ。子供もいるかもしれない。
 新堂はふと玲子を思いだした。
 今年、十七歳になる一人娘だ。最近では、二年前に死んだ妻の京子の面影が出てきた。今ごろは家で受験勉強をしているだろう。玲子は大学進学を希望していた。春の三者面談でも、担当教員が一流の国立大学も夢ではないと言っていた。学校の成績が優秀なところも京子に似ていた。
 新堂は胸元に汗染みのついたトレーナーの袖で額の汗を拭ってから、滑り止め用のゴムが付いた軍手を外した。手の甲には、紐を握りしめた痕がまだ残っていた。この仕事は、今夜のような蒸し暑い夏の夜でも軍手と長袖の上着が欠かせない。手や腕を掻きむしられた場合でも、相手の爪の中に皮膚や血痕を残さないためだった。
 新堂は周囲に目を配った。殺人の一部始終を見届けたのは、この寺の蝉ぐらいだろう。だが、蝉たちはさほどたいしたことでもなかったかのように、いつの間にかまた鳴きはじめていた。それでも長居は無用だった。木の陰に隠しておいた鞄にトレーナーと紐をしまうと、白いポロシャツに着替えた。
 もう一度、男の顔を見下ろした。
 横たわった体は、口に泡をためたまま微動だにしなかった。
 新堂は寺の階段を足早に下りながら、もう一度時計を見た。これならまだ終電に間に合うと思い、足をはやめた。
 西武池袋線の下りは混んでいた。
 酔った客が半分居眠りしながら、吊革につかまった新堂の身体に寄りかかっていた。新堂はときどき肩を動かして自立を促した。だが、社会的にも踏ん張ることを忘れてしまったような中年サラリーマンは、こづかれてもすぐに体の芯を失った。新堂は仕方なく重みに耐えた。
 人を殺すということは、慣れたとはいえやはり疲れた。この手で殺めねばならないという精神的な苦痛が、徐々に身体を蝕む。吊革を掴んだ右手も、人目につかないようにした。紐を握りしめた痕が、まだ赤い筋になって手の甲に残っていたからだ。
 練馬駅に到着したとき、目の前に座っていた女性が降りた。
 新堂が座ろうとしたとき、さっきまでもたれかかっていた中年が強引に割り込んできて体がぶつかった。
「おい」
 酔った男が、急に声を荒げた。
 新堂は振り向いた。
 中年男は据わった目をして何かを言おうとしたが、新堂の顔を見て黙った。
 澱んだ空気の車内に緊張が走った。
 新堂は後悔した。こんなところでの揉め事は避けるべきだった。相手は酔った勢いで何をしでかすかわからない。殴り合いで負ける気はしなかったが、警察沙汰になるかもしれなかった。
 新堂は「どうぞ」と、沈めかけた腰を浮かせると席を譲った。
 だが、男は席に座るどころか、車内の客を無理矢理押しのけると、閉まろうとする扉をこじ開けてホームへ降りた。
 電車が発車すると、車内はまた何事もなかったかのように静まりかえった。しかし、目の前に空いた空席には、誰も座ろうとはしなかった。新堂は吊革を握りしめて、澱んだ空気を深く吸った。この車内の人間たちは、さっきの蝉と同じだと思った。
 窓ガラスに映る自分の顔を眺めた。窪んだ目とやや薄くなった頭髪が、ぼんやりと浮かび上がっている。どこにでもいそうな疲れた中年の顔だった。だが、酔った男を見たときは、どんな表情をしたのだろう。つい一時間ほど前に人を殺した人間の顔つきは、鬼のように見えたのだろうか。
 所沢を過ぎたあたりで、乗客の数はぐっと減り、空席も目立つようになった。
 新堂はようやく腰を下ろすと目を閉じた。
 いつもの夢を見た。人を殺したあとは必ず見る夢だった。割り切ったつもりでも、やはり心の中で後悔しているからだろうか。

 リングへの歓声は聞こえなかった。
 ただ、目の前の敵を倒すことしか考えられなかった。右ストレートを出すと、ガードの下がった相手の右頬を打ち抜いた。敵の汗が無数の水滴となってきらめき、マットへと落ちた。
 敵の足もとはかなりぐらついていた。セコンドも攻めろと叫んでいるように聞こえた。ちらりと時計を見る。あと一分あった。ここが勝負だと思った。
 クリンチで休もうとする敵を強引に押しのけると、ボディへの攻撃を繰り返した。敵は徐々に後ずさる。レバーへの左フックが綺麗に決まった。敵の体が「く」の字に捻れながら、必死に苦痛を堪えていた。
 相手の疲労はピークに達していた。目が虚ろだった。戦闘意欲が感じられず、このラウンドを持ちこたえるだけが精一杯のようだった。一方、新堂はあらゆる感覚が冴え渡っていた。新人王を決めるこの試合のために、すべてを犠牲にして厳しいトレーニングに打ち込んできたのだ。
 リングサイドに追いつめられた相手は、クリンチでまたのがれようとした。べたべたとした汗にまみれた肉体を、執拗にすり寄せてくる。新堂は不快な気分だった。なぜもっと闘わないのだと本能が叫んでいた。
 レフリーが組み合った二人の体を離した。
 時計は残り時間があと三〇秒を切っていた。新堂はすばやく相手の懐に入った。そしてさきほど攻撃したレバーをもう一度ヒットした。相手の口からうめき声が漏れた。血の滲んだマウスピースが口からのぞいている。堪らずにガードを下にさげた。
 新堂はこの瞬間を待っていた。敵の顎はがらがらに開いていた。このときのために、いままで攻めなかった部分だ。
 新堂は体の捻転を利用して、ボディーを守る両腕の間から右アッパーを射しこんだ。拳は顎を完璧に捉えた。そのとき、新堂の右腕に奇妙な感覚が伝わった。固い顎をヒットしているはずなのに、なにかジェル状の液体に拳を打ちこんだような柔らかさが伝わってきた。そして拳の進行を妨げようとする粘り気が腕にまとわりついた。
 新堂はなぜかためらった。拳への力を止めようとさえ思った。だが、真剣勝負のリング上で、手心を加えることは相手に失礼だった。それにこの拳を打ち抜けば、勝利は確実だった。これ以上、試合を無駄に長引かせたくもなかった。新堂は邪念を振り払うように、拳を高く突き上げた。
 相手の汗が高く飛び散り、リングライトの光を浴びると輝く粒となって消えた。
 なにかが切れたような音が聞こえた。
 そのとたん粘り気は消え、まるで空振りしてしまったのではないかと思うほど、スムーズに振り抜けた。
 相手が白目をむいているのが見えた。膝が折れて、顔面からマットに落ちていった。
 相手のセコンドから白いタオルが投げ込まれ、トレーナーが駆け寄ってくるのがスローモーションで見えた。レフリーが両手を振って試合終了を告げている。場内の歓声が遠くの方から聞こえていた。
 新堂の足もとには、汗に濡れた背中を痙攣させた相手が、マットに突っ伏していた。
 新堂のトレーナーがやってきて、彼を抱き上げた。駆け寄る者たちは皆、笑いながら新人王の誕生を喜んだ。
 新堂は両拳を高く上げて歓声に応えた。
 新人王のトロフィーと賞状を受け取ると笑顔をつくった。だが、その間も相手の意識は戻らないようだった。医者が腫れた瞼をこじ開けて窪んだ目を見ている。やがて彼は担架で運ばれてリングを去った。ボクシングの試合ではよくある光景だった。弱者はいつも惨めな去りかたをしなければならない。
 相手の死を知ったのは翌日だった。
 いつもより遅くジムへ顔を出すと、会長に呼ばれた。パイプ椅子とすり切れた皮のソファーが置かれた応接室には、歴代チャンピオンの写真が額に飾られていた。新堂は次の対戦相手がもう決まったのかと思った。
「昨日はいい試合だった。だが、新人王をとったからといって気を抜くな」
 会長の声は固かった。
「ところで、いい気分のところに水を差すようで悪いがな。昨日の対戦相手が、今朝死んだ。このスポーツではたまにあることだ。だが、お前のせいじゃない。先方のジムの関係者も言っていた。相手は減量に失敗していたようだ。もともと立っているのがやっとの体調だったらしいが、どうしても出たいと譲らなかった。そんな人間にボクシングさせたジムも馬鹿だが、結局、自分の命を絶つ結果となってしまった。だから、このことは一応、伝えてはおくがあまり気にするな」
 そのあと、会長がなにを喋ったのか、新堂はよく思い出せなかった。気がつくと、ジムを出て近くの河原を歩いていた。
 夕暮れの光を帯びて、川の色がオレンジ色に見えた。
 拳が顎をとらえたときの奇妙な柔らかい感覚、あれはきっと相手の脳を破壊したときの感触だろう。粘り気が腕にまとわりついたような気がしたのは、相手の生命が危険であることを感じて、無意識のうちにためらったのだ。あのとき拳を止めていれば、相手はまだ生きていたかもしれない。そう思ったとき、もうひとつ嫌なことを思い出した。アッパーを打ち抜いたとき、何かが切れるような音がしたはずだ。それは肉体と魂を繋ぐ糸がちぎれた音ではなかったのか。
 馬鹿げた話だと思いたかった。
 だが、闘った者でないと分からない音や感覚、色、匂いといった感覚があった。対戦相手以外のすべてのものが遅く動くように感じ、三分という試合時間が永遠に思え、闘志を失った者には負け犬の匂いが漂い、強者の肉体からはオーラが見えた。この右腕も実際にはありえないような感覚を伝えたのだろう。人の脳を破壊した手応えは、豆腐を潰したときとそっくりだった。拳に残された感触がまだはっきりと思い出せた。ぷるぷるとして弾力はあるが、非常にもろくて崩れやすかった。
 そのイメージが蘇ると、新堂は地面に吐いた。
 夢はいつもそこで覚めた。
 冷房のきいた車内だったが、うっすらと汗をかいていた。口の中から嫌な臭いがした。
 新堂は小さくため息をついて窓の外を見た。
 もう二五年も前の思い出だった。
 あの試合以来、まったく勝てなくなり、二年後には足を洗った。会長の言葉をかりれば、自分には「闘争本能がなくなった」ようだ。確かにそうなのかもしれない。パンチを出すたびに相手の脳を潰すかもしれないとびくついていたのでは、三回戦相手にも勝てはしないだろう。だが、拳に刻まれたあの感触はもう二度と味わいたくなかった。
 その後、夜間の工事現場で働いて、昼間眠るという日々を過ごした。
 金型製作の仕事を始めたのは、ボクシングジムで知り合った三つ年上の先輩が紹介してくれたのがきっかけだった。
「体全体を動かして緻密な作業をするから結構しんどいが、やりがいのある仕事だ」
 そう言った彼の顔は、ボクシングをしていたころより輝いていた。
 先輩の親が経営していた金型製作会社は、金属の錆びた臭いが漂う町工場だった。ぴんとはりつめた作業場は二十人ほどの職人が黙々と仕事をしていた。皆、新堂をちらりと見ただけで挨拶もしなかった。
 金型は、ネジ一本から携帯電話の外装まで、あらゆる工業製品を生産するうえで欠かせなかった。金型にプラスチックや金属を流しこんで、同一の部品を大量に製造するための基礎となるからだ。それがゆえに、金型の正確さはミクロン単位を要求されることもある。職人たちは、研ぎ澄まされた目と手触り、そして豊富な経験で芸術的ともいえる金型を作った。金型の品質の高さが、そのまま日本の工業製品のレベルの高さに結びついていたといっても過言ではなかった。
 新堂は、万力で締めた金属を体全体を使って少しずつ削っていく金型作りにのめりこんでいった。金型職人の体の使い方と、ボクシングとは共通点があった。それは、どちらも腕の力だけを使ってはならないということだった。全身の筋肉の力を、ある一点だけに注いでいく集中力とテクニックが必要だった。
 新堂は徐々に金型職人としての腕を上げていった。
 工場の経理をしていた京子と出会ったのは、二八歳のころだった。その一年後に結婚して、三十歳を迎えた年に玲子が生まれた。日本が驚異的な経済成長を遂げている時期だった。子供が生まれてから練馬に一軒家を買った。地価が高騰していたが、断るほど仕事はあったし、新堂の腕前は業界ですでに有名になっていた。
 バブルが弾けてからも、金型業界だけは不況知らずといわれた。
 しかし、コンピュータの発達により四、五年前から、データを機械に取り込めば、ほとんどの金型が作れるようになると、状況は一変した。「日本工業製品の最期の砦」と言われた金型製作のノウハウと技術が、中国などの海外へと流出していった。もともと金型製造会社のほとんどは、中小企業だったため、技術の変革に対応できるところはほとんどなかった。工場をたたんだという暗い話が、つぎつぎと耳に入ってきた。
 新堂の会社も仕事が激減していたが、まだ工作機械ではできない特殊な金型などを手がけることで、辛うじて食いつないでいた。
「うちも大幅なリストラをして、最新の機械を導入しようと思っている」
 社長となった先輩は、ため息混じりに新堂に漏らした。そして工作機械の購入をはじめとする設備投資をするため金を借りる必要があり、その保証人になってほしいと頼まれた。
 新堂は、抜け殻のようになっていた自分を救ってくれた社長に恩義を感じていた。それに彼はボクシングジムで苦楽を共にした中でもあった。だが、新堂が六千万円の保証人となった翌日に、社長一家は失踪した。その話を聞いた妻は倒れた。もともと心臓が弱かった彼女は翌年に亡くなった。
 家屋を売って、妻の保険金を足しても三千万円にしかならなかった。
 新堂は一瞬にして職を失ったうえ、三千万円の借金を背負うことになった。しかも彼には娘の玲子がいた。県内でも有数の進学校に入学したばかりの十五歳だった。新堂は父親として彼女に苦労をかけたくはなかった。その思いは「玲子をよろしく頼みます」という京子の最期の言葉でもあった。
 新堂は昼夜を問わずに働いた。四十を過ぎてからの肉体労働はきつかったが、仕事を選んでいる余裕はなかった。それでも長引く不景気もあって、ボクシングと金型作りしか知らない男には、ありつくことができる仕事の数はわずかしかなかった。
 返済は徐々に滞っていった。
 そのうち、アパートのまわりを筋ものの男たちがうろつくようになった。嫌がらせは次第に陰湿になっていった。金を催促する電話が深夜を問わず掛かってきたり、玄関の扉にスプレーで「金返せ」と殴り書きされたりした。郵便受けに火のついた新聞紙を投げ込まれてぼや騒ぎになったこともあった。

 電車が西所沢に到着した。
 新堂は駅を出ると、近くのコンビニエンスストアで発泡酒を一本買った。人を殺したあとは寝つきが悪い。それを紛らわせるためだ。
 アパートに着くと一時を過ぎていた。
 鍵を回して玄関の扉を開けると、玲子が立っていた。
「おかえりなさい」
 パジャマ姿の玲子は、長い髪を後ろに束ねていた。澄んだ大きな目と、えくぼのできる頬は母親そっくりだ。
「まだ起きていたのか」
 新堂は靴を脱ぐと部屋に上がった。
「もうすぐ期末試験なんだ。頑張んないとね。お風呂も沸いてるし、ご飯もあるけど」
 台所のテーブルには彼女が作った手料理が並んでいた。質素な料理だったが、健康を考えて作られていた。
「風呂にする」
 新堂は台所で服を脱ぐと、壁に掛けられたハンガーにズボンをかけた。
 狭い一DKの部屋は、四十過ぎの男と十七歳の女が生活するには少し不便だった。新堂の衣類や寝床は台所に置いて、居間は玲子の勉強部屋兼寝室として使わせた。彼女はそんなことしなくてもいいと言ったが、年頃の娘に唯一できることだと思って譲らなかった。
「あとで着替えを置いておくわ」
 玲子は居間に戻ると襖を閉めた。
 新堂は服を脱ぐと、玄関のすぐ横にある風呂場の扉を開けた。風呂の蓋を開けると湯気が立ちのぼった。自分が好きな少し熱めの湯加減にしてあった。
 新堂は湯船に体を沈めると、思わず声が漏れた。玲子は本当なら受験勉強のためにわずかな時間も必要なはずだが、家事の一切をしていた。それに、模擬試験に必要な受講料や参考書は、学校には内緒でアルバイトをして稼いだ金でまかなっていた。
 新堂は娘のためならなんでもする覚悟ができていた。だが、現実的にはコンピュータも扱えなければ営業まわりもできない新堂を雇ってくれるような仕事はほとんどなかった。深夜の工事作業はわりのいいほうの仕事であり、ほとんどがピンクチラシの投げ込みとトイレ清掃だった。
 新堂は手で顔の汗を拭った。
 手の平にはまだ赤い紐の痕がうっすらと残っていた。今日が平凡な日ではなかったことを静かに主張していた。新堂はこの仕事を始めたきっかけをふと思い出した。

 案内された喫茶店は、昔、耳にした音楽が流れていた。カネに翻弄される人間の心を表現した独特のリズムだ。ピンク・フロイドの「マネー」だった。
 新堂はウエイトレスが運んできたコーヒーを一口啜った。テーブルをはさんだ前方の椅子には、二人の男が座っている。
「あなたならきっとできますよ」
 仕立てのよさそうなスーツを着た、佐々木という男は静かに言った。
 佐々木は新堂と同じ歳ぐらいに見えた。オールバックの髪型に痩せた身体つきだった。射抜くような細い目で冷たく新堂を見つめていた。もうひとりのガムをせわしなく噛む男は山根といった。三十代前半の、金髪でがっちりとした体格だった。
 佐々木は神田駅で風俗店の看板を持って立っていた新堂に声を掛けてきた。三千万円の借金の件で話があると言った。最初はこのところ嫌がらせを続けている取り立て屋だと思った。新堂は人目のないところで五、六発殴られることを覚悟しながら従った。
「どうしてそんなことが言える。俺にはとてもつとまるとは思えない。自衛隊あがりじゃないし、殺人のテクニックなど今さら練習する気もない」
 新堂はコーヒーカップを静かに置いた。
「いや、あなたはすでにひとり殺しているはずだ」
 そう言うと、佐々木はゆっくりとボクシングのアッパーの構えをした。
 新堂は膝の上に置いた拳を握りしめた。彼らはすべてを知っているようだ。
「新堂さんが現役のころ、私もたまたまボクシングをやっていてね。同じバンタム級だったこともあって、あなたの右アッパーには憧れたものです。ボクシングは手数が多い者か、必殺パンチをもつ者が圧倒的に有利だ。あなたの右アッパーをまともに食らって立っていた奴はいなかった」
「だが、あれは不幸な事故だ。無理な減量のせいで、対戦相手の体調がかなり悪かったと聞いている」
「でも、あなたの右アッパーが相手の命を奪ったのは確かでしょう」
 新堂は佐々木を見つめたまま、コーヒーを口に注いだ。黒い液体はさっきよりも苦みが増したように思えた。
「あなたはすでに人殺しだ」
 佐々木は囁くように言った。
 新堂は細い針で静かに胸を貫かれるような痛みを覚えた。佐々木の言葉には、徐々に相手をいたぶっていく力がある。それはボディへのジャブと同じだった。一発の力はそれほどでもないが、それを受け続けると、いつの間にか体の自由が利かなくなる。
「それが本当かどうかどうかを試されたくなければ、もう少し口のききかたには気をつけるべきだ」
 新堂も静かに呟いた。
「てめぇ! 」
 山根が立ち上がった。
 喫茶店の客が一斉に振り向いた。
「おい」
 佐々木は、山根の服を掴むと制した。
「兄貴が馬鹿にされて、黙ってはいられませんよ」
 山根は不満げに椅子に座ったあとも、声を荒げた。
「お前には無理だ」
 佐々木は細い目を山根に向けた。
「見損なわないでください。こんなおいぼれ中年なんか、片手でやれますよ」
 山根は横目で新堂を睨んだ。そしてまだ何かを言おうとしたが、佐々木が脇腹を殴って黙らせた。
「あなたに聞きたいことがひとつある」
 佐々木は何事もなかったかのように言った。
「言ってみてくれ」
「最後に勝った試合は新人王決定戦でしたっけ」
「ああ、そうだ」
「なぜあなたは、あの試合以来、右アッパーを封印してしまったんですか」
「誰かが言っていた。『お前には闘争本能がなくなってしまった』と。確かにそうかもしれない。俺は所詮、腰抜けのボクサーだったんだ」
「それは違うと思う」佐々木は静かに言った。「当時のあなたには、守るものがなにもなかった。ただそれだけです」
「守るもの・・・」
「だが、今のあなたにはあるはずだ。泥水を飲んででも、自らの命をなげうってでも守らなければならいものが」
「俺もひとつ聞いてもいいか」
「どうぞ」
「なぜ、この仕事を俺に依頼する。他にも殺気立った人間なら大勢いるだろう」
「あなたは器用な男じゃない。仕事として受ければ、愚直なまでに実行してもらえると思ったからです」
「断ると言ったら」
「あなたはまだ幸せなほうだ。借金の返済方法がもうひとつあるからです。私の仕事の依頼を断っても、娘さんを風俗店で働かせるという手段が残っているのですから」
「・・・・・・」
「新堂さん。あなたには経験がないことかもしれませんがね。今のあなたはリングサイドに追いつめられた瀕死のボクサーです。必死にガードしても相手のパンチは容赦なくふってくる。そんな状況での選択は二つです。その場でマットに沈むか、最期の力を振り絞って闘いを挑むか、です」
 新堂は冷めたコーヒーを飲み干した。泥水の味がしたような気がした。
「殺される相手は、本当に死を望んでいるのか」
「彼らにはあなたのように恵まれた条件がない。だから死亡保険金で借金を返済するしかないのです。だが、自殺しようと思っても死にきれない者が非常に多い。しかも保険金支払いの免責を、自殺の場合は三年に延長する保険会社が増えた。その結果、死ぬに死ねなくて困っている人があふれている」
「武器は借りられるのか」
「ピストルや刃物は出所がばれやすい。バットや鉄パイプはかさばって目立つ。しかも相手が出血するような方法だと、返り血を浴びてしまうことがある。この仕事で最も適した方法は、絞殺でしょう。縄ならどこにでもあるし、ズボンのポケットにだって収めることができる。ただこのやりかたはかなりの俊敏さが必要だ。相手の間合いに速やかに入っていかなければならい。その点で、絞殺は実行者を選ぶ方法ですが、あなたの場合、あのフットワークがあれば充分に可能です」
「報酬は、ひとり三百万円だな」
 新堂は呟いた。
「はい。標的の顔写真と殺害を指定した場所は、そのつどこの携帯で指定します」
 佐々木は胸ポケットからカメラ付き携帯電話を取り出してテーブルに置くと、使用方法の説明を簡単にした。
「十人殺すのか」
「あなたがまた闘うと思うとわくわくする」
 佐々木はにやりと笑った。
 新堂は微笑みもせずに携帯電話をポケットにしまうと席を立った。
 神田駅は一日中ごみごみとしていた。
 新堂はまた風俗店の看板を持って立ちつくしながら考えた。
 佐々木が提案した仕事は、泥沼の不景気だからこそ生まれたものといえた。不動産や株、ギャンブルなど、さまざまな理由で借金のある者たちがこの不景気で借金を返済できなくなり、負債が雪だるま式に膨らんでいく構造だ。
 佐々木も言っていたとおり、借金の返済に苦しむあまり、自殺する者も大勢いるのだろう。だが、最近では保険金目当てで自殺する者が多数出てきたため、保険金の支払免責事項にある「自殺による保険金支払いは保険加入から一年以上経過後」という項目を「三年経過後」とする保険会社が増えてきた。つまり、自殺者への保険金支払いを牽制した。
 だが、その一方で金を貸した側、特に闇金業者にとってみれば、保険金による集金が出来なくなることはかなりの痛手だった。どんなに卑劣な嫌がらせをしたところで、普通の人間にはいきなり数百万円など返済しようがない。若い女ならば風俗店に勤めさせて、体で払わせることもできるだろう。だが、男の使い道はほとんどなかった。しかも、下手に暴力をふるって警察沙汰になるのもわりに合わない。負債者が死ねば保険金目当てとしてまっさきに疑われることになる。
 佐々木によると、殺し屋は大勢いても、堅気の殺人を請け負う者はほとんどいないようだ。人ひとりを殺すリスクのわりには、実入りが少ないし、業界での評価が低くなるからだ。その行為は、例えて言えばプロ野球選手が草野球の助っ人をして小銭を稼ぐようなものだと佐々木は説明した。
 そこで、彼らは負債者とはまったく無関係な第三者に殺害させることで、円滑に保険金が支払われる仕組みを考えた。殺す側も殺される側も同じ立場の人間、つまり借金地獄にはまった者たちだ。
 警察も、具体的な目的のない通り魔的な殺人事件には手を焼くことが多い。殺害した動機から逆算して犯人の割り出しができないため、殺人現場の遺留品などの物的証拠をもとに捜査するしかなくなるからだ。
 被害者との接点をまったく持たない人間は、ある意味で優れた殺し屋と言えた。相手との利害関係がないし、感情のもつれなども皆無だからだ。殺害する相手の名前すら知らされない。携帯電話で得る情報は、殺される者の顔の静止画像と、指定された時間と場所だけだった。
 風呂からあがると、冷蔵庫に入れていた発泡酒を取り出して喉に流し込んだ。台所にあるテレビにイヤホンを差しこむと、スイッチをいれた。深夜のニュースで、音羽通りの寺で起きた殺人事件の現場を中継していた。
「これは、殺害の手段から一連の通り魔事件の同一犯人だと思われます。今回も犯行声明らしきものもなく、これで犠牲者は七人目ととなったわけです」
 新人の記者なのか、たどたどしく状況を説明している。
「これまでの被害者とは、なにか関連はあるのでしょうか」
 ニュースキャスターが落ち着いた口調で質問する。
「年齢が四十代から五十代の男性を中心に狙っているという点では、今回の中沢剛さんも共通していますが、職業や出身等の共通点は見当たらないようです。警察では、二、三年前に不良グループの間で流行った、いわゆる『オヤジ狩り』がまた行われているのではないかという見方もあり、捜査を進めているようです」
 あの男は中沢といったのかと、発泡酒を飲みながら思った。警察は、被害者たちが皆、借金で首がまわらなくなっているという共通点を報道に伏せているのだろうか。あるいはマスコミも分かってはいるが被害者の遺族たちへの配慮でおおやけにしていないだけかもしれない。
「怖いね」
 いつの間にか玲子が居間の襖を開けていた。
「中年ばかり狙うらしい」
「最近は、無目的に人を殺す事件が多いよね」
「ああ」
 新堂はぬるくなった発泡酒を飲み干した。玲子は寝不足気味なのか、赤い目をしていた。
「勉強のほうは進んでいるのか」
「まあね。父さんも、仕事大変なの」
 玲子はあくびまじりに尋ねた。
「まあな」
 新堂はテレビを見つめたまま曖昧に答えた。
「最近はなんだか疲れているみたい」
「四五歳ともなれば、多少くたびれも出るさ」
「今さっきテレビでやってた、中年を襲う通り魔には気をつけるんだよ」
「そうだな」
 新堂はテレビのチャンネルをバラエティー番組にかえた。観客が大笑いする声に、新堂は作り笑いを浮かべた。

 人を殺した翌日は、いつもより身体が重かった。だが、新堂はどんなに遅い帰宅でも、七時の起床は守った。八時半にひらく池袋のハローワークへ顔を出すことを日課としていた。それに七時は玲子が起きる時間でもあった。彼女の朝食を作るのは新堂の役目だった。朝食といっても食パンをトースターで焼いてからスクランブルエッグを作り、コーヒーを沸かすだけだったが。
 しかし、新堂が朝食をつくり終えたあとも彼女が目覚めた気配はなかった。襖をそっと開けると、玲子がまだ熟睡していた。布団から足がはみ出している。寝相の悪さも母親譲りだ。新堂が寝たあとも遅くまで勉強をしていたのだろう。「おい」と声をかけると飛び起きた。
 玲子は目覚まし時計を見ると「まずい」と呟いて、台所に駆け込み歯を磨いた。そして、ものすごいスピードでパジャマから制服に着替えると、朝食のパンもかじらずに「行ってきます」と言って、振り返らずに慌ただしく玄関の扉を閉めた。
 新堂は彼女のためにつくった朝食を食べると服を着替えた。ズボンのポケットに入れてある携帯電話に着信があった。伝言を聞くと佐々木の声が入っていた。
「明日の夜十一時にゆりかもめの駅、海の科学館前の駐車場で」
 携帯電話のメールに添付してある顔写真は、小太りの眼鏡をかけた五十代の男だった。まだ昨夜の事件が話題になっているというのに、明日の夜に再び殺人を実行するのは気が引けた。だが、自分には拒否する権限がないことはわかっていた。指定された日時に、指定された場所で、指定された人間を殺すのはあと三人だ。そうすれば借金が帳消しとなり、玲子の大学進学の費用も払えるのだ。新堂は眩しい太陽が照りつける外に出た。
 池袋駅に降りると、乗客の濁流に流されるように改札口を出て、ハローワークへと向かった。ここを訪れる人間はさまざまだ。新堂のように会社が倒産して職を失った者から、フリーターの延長で気軽に転職する若い世代もいる。今日も張り出されている掲示板を見たが、条件に合うものはなにもなかった。
「よう。社会のはみ出し者」
 気に障る言葉が背中でした。
 振り返ると、金髪の髪を指で撫でながら山根が立っていた。
「用件はなんだ」
 新堂は表情を変えなかった。
「毎日、ご苦労なことだな」
 山根はへらへらと笑った。
「顔を洗ったあとの日課のようなものだ」
「しょぼい仕事ををいまさら探してなにになるのかねえ」
「なんにもならないかもしれないが、なにもしないよりはいい」
「結構な心がけだぜ。ところでいい話がある」
「何だ」
「ここじゃなんだ。ちょっと茶でも飲みながら話さねえか」
 山根はハローワークのビルの近くにある喫茶店へ入った。古びた店構えだが、客はかなりいた。
「ご注文は」
 水をテーブルに置きながらウエイトレスが尋ねた。
「ブルマン」
 山根は絡みつく視線を彼女に向けた。
「新堂さんはいつものでいい?」
「ああ」
 ウエイトレスはかすかに頷くとカウンターへと戻った。
「なんだ、なじみの店なのか」
「まあな。一般新聞からスポーツ紙までかなり揃っているから、社会のはみ出し者にはいい時間つぶしになる店だ」
「あんたが今さら新聞を読んでもしょうがないだろう」
 山根は鼻で笑った。
「それに、このあたりじゃまともなコーヒーを出す喫茶店だと思う。豆だけじゃなく水にもこだわっている」
 新堂は水を一口飲むとそう呟いた。
「ふうん」
 山根は気のない返事をした。意識はすでに新堂との会話にはなかった。スカートから覗くウエイトレスの細い足ばかり見ている。
 新堂は冷えた水をまた口に含みながら窓の外をじっと見ていた。やがて彼女がコーヒーを運んで来ると、山根が声をかけた。
「あんた、綺麗だね。大島さんって言うんだ」
 山根は胸の名札を上目づかいに見て、にやりと笑った。
「それはどうも」
 彼女はぎこちなく笑った。
「名前は?」
「ミサ」
「ふうん。ミサちゃんか」
「ちゃん付けされるほど若くはないんですけどね。でも、新堂さんが人を連れてくるなんて珍しい」
「学校の後輩だ」
 新堂は言った。
「そうそう、部活動が同じでね。ボクシング部だったんだ」
 山根は話を合わせてきた。
「どおりで喧嘩が強いわけね」
「なんで知ってるの」
 山根は意外な声をした。
「店の中で暴れた酔っぱらいの客を、一発でぶっ飛ばしたのよ。すごく格好よかったんだから」
「もういい。俺たちには積もる話がある」
 新堂は釘をさした。
「あら、それは失礼。ではごゆっくり」
 ミサは横目で新堂を見ながら去っていった。
「あの肌じゃあ、彼女は三十路前だな。あと五歳若ければホステスとしていい線いってたぜ。でもまだ使い道はあるかもな」
 山根はコーヒーを一口飲むと言った。
「ところで、そろそろいい話とやらを聞かせて欲しいんだが」
「あんたの仕事ぶりは佐々木さんもたいそう満足している。つまり、あの仕事はあんたに向いているんだろうな」
「あと、三人で終わりだがな」
「そこなんだが、あんたこの仕事を続ける気はないか。本気で取り組むつもりがあれば、俺が手助けしてやってもいい。必要ならチャカも貸せるし、毒薬だって持ってきてやる。一仕事で四百万だ。俺の分け前は百万でいい。どうだ、いい話だろう。ただしこの話は佐々木さんには内緒だがな」
「俺に、プロの殺し屋になれということか」
「悪くない話だろう」
「残念だが、あんたの願いは叶えられない。俺は、この仕事に正直うんざりしているんだ」
「もう一度よく考えろよ。お前みたいな腐れ中年が大金を手に入れようと思ったら、銀行強盗でもするか人を殺すしかねえんだ」
「俺は人殺しで金儲けをしたいわけじゃない。自分の過去を帳消しにしたいだけだ。それに、いままで殺した人間は、残された人のために死を選んだ。ヤクザのショバ争いで駆り出されるヒットマンとは違う」
「おい。てめえはよ、借金まみれのどぶネズミのような立場だっていうのに、高いところから見下ろすようなことばかり言うんじゃねえ。はっきり言ってむかつくぜ」
 山根は唾を吐きかけた。
 泥色の唾液が新堂の頬に付着した。
「やるんだったらいつでもいいぜ。おまえがこの店でやったように、俺をKOしてみろよ」
 山根が荒々しく立ち上がったとき、テーブルが膝にぶつかってコーヒーがこぼれた。
 客がみな振り返った。
 店内でかすかに流れていた七〇年代ロックが鮮明に聞こえた。偶然にもピンクフロイドの「マネー」だった。
「目立つことはよせ」
 新堂は座ったまま、テーブルに広がる黒い液体を見ていた。
「まあ、いいや。お前は一生、のぞき部屋のサンドイッチマンでもやってろ」
 山根は一万円札を放り投げると、店を出ていった。
 客たちのため息と囁き声が、やがて蝉の声のようにわいてきて、徐々に音楽をかき消していった。
「服は汚れなかった?」
 ミサがテーブルを拭きに来た。
「大丈夫だ」
「ねえ、あの人本当にあなたの後輩なの」
「ああ、しばらく見ないうちに性格が変わってしまったようだ」
 新堂は残りのブレンドを喉に流し込んだ。
 いつもより早く喫茶店を出ると、デパート巡りをした。買いたいものがあるわけではなかったが、ただで入れる冷房設備のある場所はデパートしかない。夏の東京は、外で何時間も立っていられる環境ではなかった。
 外に出るといつの間にか夕立があったようだ。少しだけ涼しくなった街を歩いて、駅へと向かった。
 家に帰ると玲子が夕飯を作っていた。
「今日は早いのね。最近は遅い日が多いけど」
「ああ。不景気だから数をこなさなきゃならない」
「あんまり無理はしないでね」
「わかっている」
「ところで、父さんは最近、どんな仕事をしているの」
「保険の渉外ってところかな」
「ふうん。金型作り以外の仕事もできるようになったんだ」
「今の世の中じゃ、好き嫌いは言ってられないからな」
「それで携帯電話を持っているんだね」
「あ、ああ。会社から支給されたんだ。使い方はよく分からないが」
 新堂はポケットから携帯電話を取り出して見せた。
「いいな、それって最新機種でしょう。動画も送れるやつ。ねえ。通話料は自分で払うから私も買っていいかな。今じゃ、電話機そのものはただみたいなものだし。友達もみんな持っているの」
「好きにすればいいさ」
「じゃあ、明日買っちゃおう。ねえ。父さんの携帯番号教えてよ。一番最初にかけてあげる」
「いや、いいよ」
「どうして。娘からの電話が嬉しくないの」
「携帯電話はあまり好きじゃない。それよりも風呂にする」
 新堂は立ち上がると服を脱ぎ始めた。
「へんなの」
 玲子は不満げに襖を閉めた。
 新堂は湯船に体を沈めながら考えた。
 玲子はいつの間にか、自分の携帯電話のことを知っていた。注意を払っていたつもりだったが、家に帰るとやはり緊張の糸が緩んで隙ができるのだろうか。それにこの携帯電話は、佐々木から連絡を受けるためだけに使っていたので、新堂はこの電話の番号さえ知らなかった。どこかのボタンを押せば表示されるのかもしれないが、その操作方法もわからなかった。佐々木から教えられた操作方法は、着信のあった留守番電話と静止画の再生だけだった。

 翌日もハローワークに顔を出してから喫茶店へ足を運んだ。
「昨日はすまなかった」
 新堂は水を運んできたミサに詫びた。
「いいのよ。それより、お昼って暇」
「ああ。今日は夜から仕事だが、昼は特になにもない」
「よかった。ちょっと相談したいことがあるの。あれからまた来たのよ、あなたの後輩が。詳しくは二時の昼休みに話す。丸井の前で待っていて」
 新堂は約束の時間までまたデパートで時間をつぶした。昼間からなにもやることもなくぶらぶらしているのは、社会的立場がより浮浪者に近いような気がした。待ち合わせの時間が近づいて外に出ると、夏の日差しがじわじわと肌を焼くようだった。
 約束の場所では、ミサはすでに待っていた。近くのファーストフードで彼女は遅い昼食をとった。
「あいつはなにをしに来たんだ」
「やっぱり知らなかったのね。あのひと、私をスカウトにきたの」
「スカウト?」
「月収百万も夢じゃないと言ってた。ホステスの仕事だけど高級クラブで、客は皆、大企業の社長だから安心だって」
「それで、受けたのか」
「ううん。まだ。新堂さんの知り合いだからあまりむげに断るのもどうかと思って。それに、私、実は夜も仕事をしているの」
「昼も夜も働きづめなのか」
「元旦那が三年前、事業に失敗してね。私と子供を残して失踪した」
「子供はまだ小さいのか」
「今年小学生になったばかり。今は実家の母親の元から通わせているの」
「俺も娘がひとりいる。今、高校三年生だ」
「難しい年ごろでしょう」
「そうでもない。母親の代わりに家事もしているから、忙しすぎて反抗する暇がないのかもしれない」
「奥さんは」
「二年前に死んだ」
「そうなんだ」
「それよりも、どうするつもりだ。スカウトを受けるのか」
「もう一回、質問するわ。あのひとは本当にあなたの後輩なの」
「すまない。それは嘘だ。だが嘘をついた理由は聞かないでくれ」
「分かった。じゃあ、やっぱり断るわ。なんだか危なそうだし」
「それがいいかもしれない。いずれにしても心配をかけたようだ。すまなかった」
「いいわよ。でもね、あの男にはひとつだけ感謝していることがある」
 ミサはくすりと笑った。
「それはなんだ」
「新堂さんとこうやってゆっくり話す機会を与えてくれたこと。今までは、お店の中だけだったし、私も仕事中であまり話せなかったから」
「四五歳の中年と話がしたいのなら遠慮はいらない」
「あら、私だって三十路のバツイチよ。ひとのことをとやかくいえたもんじゃないわ」
 ミサはそう言ってから、食後のアイスコーヒーを口にした。
「ところで、私に心配をかけた罰として、今度晩ご飯でも奢ってもらおうかな」
「あまりいい店は知らない。汚い居酒屋でよければ」
「じゃあ約束ね」
 ミサはほほえんだ。
 山根の女を見る目は確かだと、新堂は心のなかで思った。今まで気にもしていなかったが、憂いのある表情は男好きする顔立ちなのかもしれない。
 ミサと別れると、早めにお台場の駐車場へ行って下見をした。係員のいない二十四時間オープンの駐車場は、週末ともなれば観光客やカップルで一杯だろうが、平日はがらがらに空いていた。
 新堂は身を隠す場所を探した。駐車してある車はまばらとはいえ、いつ持ち主がやってくるかわからない。誰かに顔を見られるのは避けたかった。出口へ誘導するガードレールの裏にある草むらが唯一の隠れ場所と言えた。ここならば、ガードレールをまたがってわざわざ駐車場に入ろうとしないかぎり、周囲の死角となっていた。
 新堂はコンビニで買ってきた握り飯を食べてから、露出している皮膚に防虫スプレーをかけた。夏場の屋外では必需品だ。草むらに横になると、電線のない広々とした空が広がっていた。オレンジ色と青色が複雑に混じり合った夕暮れをつくりあげた太陽が、ホテル日航東京のビルへと沈んでいった。
 お台場は、都市博の中止の影響でまだ広大な空き地がいくつもあった。そこには雑草が茂り、日没を見届けたかのように、どこからともなく虫の声が聞こえてきた。
 十一時のお台場周辺は、不夜城のように明るいショッピングエリア以外の場所は、人通りもなく殺伐としていた。特に指定された巨大な駐車場はほとんど暗闇に近かった。
 予定時刻を五分ほど過ぎたころ、白いクラウンが近づいてきた。自動チケットを引き抜くしぐさが見える。静かにゲートが開いた。
 車は広大な駐車場のどこに停めればいいのか迷っているようだったが、ゆっくりと旋回してから停まった。やがてエンジンをかけたまま男が出てきた。車のライトに照らし出された顔は、携帯電話のメールで送られた小太りの男だった。
 男はあたりを見回している。誰かを捜しているようだ。恐らく「金を貸せる目星がついた」、とか「いい仕事の相談がある」という誘いにのって来たのだろう。彼らには選択肢はない。金になることなら無条件に飛びついてしまう。
 新堂は腰をかがめて、車の後部からゆっくりと男に近づいていった。エンジン音のおかげて、男には足音はほとんど聞こえない。
「なんだよ、いい加減なやつらだな。本当に来るのかよ?」
 男のぼやき声が聞こえた。
 新堂はトランクの後ろに身を隠した。排気ガスのにおいが鼻を突いた。
 両手に縄を握ると呼吸を整えた。
 辺りをもう一度見た。
 人の気配はなかった。
 新堂はタイミングを待った。
 男が大きなあくびをした。その瞬間、男の背後へと忍び寄った。そして、音もなく紐を首に巻きつけた。
 男は「あ」と呟いたが、それ以上は声が出せなかった。じたばたしなががら新堂の手袋と長袖を必死に掻きむしった。新堂は男の体を車のライトから少しずつ遠ざけながら、絞める力を緩めなかった。
 ほどなく男は「かっかっ」という声を漏らすと、首の筋肉が柔らかくなった。紐がみるみる皮膚の内側へとめりこんでいく。それは肉体と魂を断ち切る儀式のようだった。
 やがて縄を掻きむしっていた手が、だらっと垂れ下がった。新堂は背中を合わせて男を担いだ。周囲を再度見渡した。主を待つ車が、ライトを灯しながら虚しくエンジン音を立てていた。
 首を絞めてから五分たった。男はすでに重い肉の塊と化していた。アスファルトの地面に体を横たえさせると、男は口から白い泡を吹いていた。
 時刻は十一時半を少し回っていた。新堂は車のエンジンとライトを消すと、Tシャツに着替えてその場を去った。
 帰りの電車は混んでいた。
 週末のせいか酔った客が多かった。大声で同僚と会社のぐちをこぼしている。携帯電話で、明日遊ぶ予定を相談する若者の声が耳に入った。人を殺したあとは、気が高ぶっているせいか、すべてが苛立たしく思えた。新堂はアルコールくさい車内の空気を深呼吸して、あと二人なんだと自分に言い聞かせた。
 家に帰ると玲子が襖から顔を出した。
「買っちゃった」
 玲子はピンク色の携帯電話を見せた。
「そうか」
 新堂はそう言うのがやっとだった。布団を敷くと、帰り道に立ち寄ったコンビニで買った発泡酒を一気にあおった。連日人を殺すのは、精神的にきつかった。
「ねえ、聞いてるの」
 語気の荒い玲子の声が耳に入った。
「どうした」
「もう、全然聞いてないんだから。父さんの電話番号を教えてって言ってんの」
「俺の携帯に電話なんかしなくてもいい」
 新堂はそう呟くと、布団に横になった。
「あ、そう」
 玲子の冷めた声が遠くで聞こえた。

 しばらくは佐々木から仕事の依頼は来なかった。新堂は炎天下の神田駅で、また風俗の看板を持って立っていた。
 汗が、焼けたアスファルトに落ちた。ボクシングの減量にくらべれば楽だったが、夢がないぶんきつかった。
 あと少しで借金は帳消しになるだろうが、それは社会的に振り出しに戻ることでしかない。これからは日々の生活費のほかに、玲子が進学するための費用が必要になるだろう。新堂はサンドイッチマンや工事現場での受け取った日払いを少しずつ貯めていた。今は五十万しかないが、年末までには百万円を貯金したかった。
 ポケットに入れた携帯電話が鳴った。
「仕事です」佐々木からだった。「明日の十時に横浜の港みらいの県立美術館裏で」
「わかった」
「あと二人ですね」
「ああ」
「この仕事が終わったら、どうするつもりなんですか」
「まだ、考えていない」
「もしよければ紹介してあげてもいい。『裏』の仕事ではなく、娘さんにも言える職業をね」
「この仕事が終われば二度と会わないほうが、お互いのためだと思うが」
「それは寂しいですね。あなたはあと二人で終わりかもしれないが、私は新堂さんの代わりになる人間を探さなければならない。果たしてあなたほどの人材が見つかるかどうか」
「寂しがってくれるのはうれしいが、俺でもできた仕事だ。誰にでもやれるさ」
「だといいんですが。では、明日の相手の顔写真はメールで転送しておきます。今回のは写りがあまりよくないが」
「構わない。ところでひとつ頼みたいことがある」
「なんでしょう」
「この携帯電話の番号を教えてくれないか」
「どうしてです? その携帯電話の名義人は、ある借金にまみれた男の名前と口座を使っています。その電話からは我々を割り出すことなんてできませんよ」
「そんなことに使うつもりはない。娘とのコミュニケーションに使おうと思った」
「なるほど。では、最後の仕事が終わったら、私からのささやかなプレゼントとして、その携帯電話をあなたの名義にしておきます」
「男からプレゼントしてもらうのは生まれて初めてだ」
 新堂は苦笑した。
 佐々木はしばらく笑ったあと、携帯の番号を教えた。
「ところで、私からもお願いがあります」
 電話を切る間際、佐々木はふと思い出したように言った。
「なんだ」
「最後の仕事が終わったら、一度飲みませんか。ボクシングの話でもしましょう。実は副業でボクシングジムの経営もしていてね。優秀なトレーナーがいなくて困っている」
「そうだな、考えておく」
 新堂は電話を切ると、吹き出す汗を手の甲で拭った。そして看板を杖のように両手で支えて、無駄な体力を使わない姿勢をとった。
 やがて携帯電話がEメールを受信した。送られてきた静止画像を見ると、佐々木の言ったとおりややぼやけた女の顔写真だった。新堂が女を殺したのは、いままでに一度しかない。吉祥寺の公園で殺害した標的だった。翌日に見たテレビの情報によると、彼女は宝石販売のチェーン展開をしていた社長だった。バブルがはじけて会社が倒産したときは話題になっていた女だ。
 だが、この静止画像の顔には見覚えがあった。派手な化粧をしていたが、間違いなくミサだった。
 もっとも恐れていたことが起きた。
 もともと知り合いとよべるような人間関係がほとんどなかったせいか、そんなことは起きないと思いこんでいた自分が愚かだった。同時に、ミサに対して知り合い以上の感情を持っている自分に気づいた。借金まみれの中年男には到底似合わない思いだった。だが、新堂には標的を選ぶ自由はなかった。相手が誰であれ、絞め殺さなければならない。
 新堂は叫びたくなる気持ちを必死に抑えるため、看板を打ちつけてある角材を手の平から血が滲むほど握りしめた。
 日が落ちてからも、なかなか気温は下がらなかった。新堂はポケットからペットボトルに入れた水道水を飲んだ。生ぬるい水が喉を通りすぎていくのが分かる。しばらくすると日焼けした腕から、水泡のような汗がぷつぷつと無数に浮かんできた。仕事帰りのサラリーマンたちが新堂の持つ看板をちらちら見ながら通りすぎていった。だが、新堂は彼らと目を合わせることはしなかった。いかがわしい店に行く客は顔を見られたくないという心理が働く。看板持ちは見られるのが仕事であって、決して見てはならなかった。
 看板持ちの仕事が終わったのは、夜の十一時だった。風俗店の店員から一万五千円の現金を受け取ったあと、コンビニで握り飯を買った。
 汗染みのできたTシャツは、冷房のきいた電車に乗ると皮膚に鳥肌を立てた。吊革広告に見ると、週刊誌の広告が目に入った。
「連続無差別絞殺事件の真実。恐怖の犯人像とマスコミが書かないある共通点」
 この内容が自分のことだと分かるまでにはしばらく時間がかかった。
 駅に着いてから、コンビニで吊革広告にあった週刊誌を立ち読みした。犯人は中国人マフィアであると予想していた。そして被害者は皆、多額の借金があったことを指摘していた。確かに佐々木や山根が本当に日本人かどうかは分からない。彼ら自身か、そのさらに上の黒幕が中国人マフィアが絡んでいるのかもしれない。だが、新堂にとっては黒幕がだれであろうとどうでもよかった。あと二人殺せばすべてが終わる。そして裏の世界の仕事からきっぱりと足を洗い、今後は彼らと接触は持たないと決めていた。ただその前にミサの命をこの手で奪ねばならない。新堂はこの仕事をひきうけた自分自身を呪った。
 家に帰ると玲子が玄関に立っていた。
「今日も遅かったね」
 玲子の声にはいつもの明るさがなかった。
「一日中、外にいたから体中、汗まみれだ」
「さきにお風呂にでも入れば。いい湯にしてあるから」
 玲子の表情が暗かった。
「玲子、どうかしたのか」
「ううん、別に」
「テストの成績でも悪かったのか」
「そんなことないよ。ぼちぼちってところ」
 そう呟いた玲子の顔は、すでにくしゃくしゃに歪んでいた。
 新堂は娘になにが起こったのか理解できなかった。自分の親が人殺しをしているのがばれたのだろうか。あるいは、借金の取り立て屋から何かの嫌がらせを受けたのだろうか。
「どうした」
 新堂はそうとしか聞けなかった。
「今日、偶然に見たの。父さんが神田で看板を持って立っているところを」
 玲子は一気に言った。
「そうか」
 新堂はテレビのスイッチを入れた。
 プロ野球の試合結果が流れていた。
「ねえ、お願い。あんな仕事、もうやらないでよ」
 玲子は叫んだ。
「あれもちゃんとした仕事のひとつだ」
「でも、みっともないじゃない。風俗店の勧誘でしょう」
「俺が今できる仕事はそんなもんさ」
「一緒にいた友達が父さんを見て言ったの。『あんな仕事をする大人って社会の底辺の人間だ』って。私は『そうね』と答えた。でも、そう言うしかなかった。友達の父親は皆、ちゃんとした会社に勤めている。そんなひとたちの前で『あれが私の父です』とは口が裂けても言えなかった」
「それはいいさ。俺はいま出来ることの精一杯をやっている。そのうえで、誰かに馬鹿にされようとかまわない。ただ、お前が情けない気持ちになったことは理解できる。これからはお前が足を運ばないような場所を選んで看板を持つよ」
「私、父さんにそんなことをさせてまでして、大学なんて進学したくないよ」
 玲子の目には涙が浮かんでいた。
「大学進学は俺が強制したわけじゃない。やめたければやめればいい。だが、後悔だけはするな。俺はボクシングと金型作りしか知らない。そんな人生を歩んできた。だが、後悔はしていない。例えいまは看板持ちでも、俺は納得してやっている。生き方を曲げたつもりはない」
 新堂はテレビを消した。
「ごめん。最低の娘で・・・」
 玲子の頬に涙が流れた。
「風呂に入ってくる」
 新堂は汗でまとわりついたシャツを脱ぐと洗濯機に放り投げた。風呂の扉を閉めると湯気が立ちこめていた。
 新堂は息苦しさを感じた。この湯気のように湧き上がる怒りをどう処理していいのか分からなかった。
「俺も、悪魔に魂を売った最低の男だ」
 新堂はぽつりと呟いた。

 横浜の県立美術館は幻想的な場所だった。
 夜になると地面の大理石に埋め込まれたライトがぼんやりと灯っては消えた。まるで地面を這う蛍のようだった。
 だが、夕方から降り始めた雨のせいで、ロマンチックなムードに惹かれて訪れるカップルは誰もいなかった。佐々木は今日の夕方から雨になることを知って、この場所に指定したのだろう。
 新堂は美術館の建物で雨宿りをしていた。傘をさした警備員は二時間毎に訪れた。だが、さほど注意深く見回りもせずに新堂が身を隠す柱を通り過ぎていった。
 十時ちょうどに、赤い傘をさした人影があらわれた。外灯に映ったシルエットから、女であることがわかる。
 人影は、美術館裏にある花壇の前で立ち止まった。あたりを注意深く見回しているようだ。新堂は花壇の横にある有名な彫刻のレプリカに身を隠すと様子をうかがった。
 予定通り花壇の前にミサは立っていた。
 喫茶店で働く姿よりも入念に化粧を施した顔は、憂いのある表情をよりきわだたせていた。肩が剥き出しになった黒のキャミソールが、無防備であるがゆえの色気を演出していた。
 彼女の不安げな表情は、新堂の意志を曇らせた。
 新堂は彫刻の影から姿を現した。
 ミサは振り返って新堂の顔を見ると目を大きく見ひらいた。
「どうして、あなたが」
「おれが、君を呼んだ」
「あなたが指名したの」
「指名?」
「一晩で二百万円を払うという条件で私は指名された」
「じゃあ、君が言っていた夜の仕事は」
「そう。いわゆる出張ソープ嬢。九十分三万円で何でもするわ。一晩で二百万円を稼げるなんて夢のような指名が来たからわざわざ横浜まで来たの」
「そうか」
「軽蔑したでしょう」
「いや、俺はそれよりももっと軽蔑される仕事をしている」
「これ以上、情けない仕事なんてないわ。毎晩、好きでもない男のために股を広げて、作った喘ぎ声をあげるのよ」
「もう、よせ」
「でも、いいわ。そんなことどうでも。あなたがどんな仕事をしていても知ったことじゃない。あなたが私のお客さんであることには変わりないもの。今夜はあなたの好きにしていいわ。さあ、はやく始めないと二百万円の夜はあっという間に終わる。今なら私は地面の泥水だって飲むし、この場で裸にだってなる。あなたの奴隷だと思って」
 ミサの傘に新堂が入った。
「どれだけの借金があるんだ」
 新堂はミサの肩をそっと抱いた。
「あと、二千万残っている。でも、それを返すまでに身体がもつかな」
「辛かっただろう」
「もう、変なこと言わないで。悲しくなるじゃない。それともこれもプレイのひとつなの?」
「そういうつもりじゃない」
「でも、あなたってやっぱり変ね」
 ミサはそう言って笑った。
「どうしてだ」
「だってこんな蒸し暑いのにトレーナーを着てるんだもの。風邪でも引いたの」
「ああ、寒気がするんだ」
「じゃあ、雨に濡れちゃだめじゃない」
「傘を忘れてしまった」
「ばかね」
「それになんで手袋なんかしているわけ」
「手を火傷した。ばかでどじな男だ」
「本当ね」
 二人はふっと笑った。
「実はね、あなたのことちょっと好きだったんだ。だから、今夜は本当の恋人みたいに愛してあげる」
 ミサは新堂の腰に手をまわすと、唇を重ねた。
「子供には会ってきたのか」
 新堂は耳元で囁いた。
「母に預けてきたわ。だから朝まで気にしなくてもいい」
「子供の写真を持っているか」
「あなたにとってはつまらないでしょう」
「でも見たいんだ」
「あなたってつぐづく変な人ね」
 ミサは俯いて鞄の中からアドレス帳を取り出した。そのとき新堂は手の平に隠していた紐を、ネックレスをするように彼女の首に巻きつけた。
 ミサは一瞬大きく目をひらいて新堂を見つめたが、やがてゆっくりと目を閉じた。性欲を高めるプレイのひとつとでも思ったのだろうか。彼女はほとんど抵抗しなかった。
 しばらくして、彼女の手からアドレス帳が落ちた。
 新堂は静かにミサの身体を横にした。
 アドレス帳からはみ出した写真が、水たまりに浮いていた。新堂は拾い上げると戻してやった。写真に写っていたものを見ることはできなかった。
 新堂は血が滲むほど唇を噛んで嗚咽を堪えた。赤い傘が湿った風に吹かれて、アスファルトの地面を弄ばれるように転がっていった。

 雨に打たれたせいか、新堂は風邪をこじらせた。体温計で熱を計ると三十九度あった。市販の薬では効果がなかった。玲子に「勉強にさしつかえる」と怒鳴られて、新堂はふらつきながら病院へ行った。
 医者には軽い脱水症状になっていると言われ、太い注射を打たれたあと飲み薬と座薬を処方された。
 家に帰ると学校を休んだ玲子が粥を作っていた。
「父さんに倒れられると私も困るんだから」
「もし俺が死んだらどうする」
「葬式とかでしばらくは受験勉強が出来なくなるでしょう。それで大学に落ちたら絶対にお線香もあげないからね」
「線香ぐらいあげるのは子供の義務だ」
「じゃあ、そう思えるぐらいちゃんと育ててよ」
 玲子は卵粥を差し出した。
 妻の味とまったく同じだった。いつの間に覚えたのだろう。それとも玲子のなかに流れる彼女の血が味付けを似せたのだろうか。
「うまい」
 新堂は思わず呟いた。
「お母さんの気持ちになって作ったの。早くよくなってね」
 玲子はほほえむと、図書館に行くと言って家を出た。
 新堂は粥を平らげると布団に潜り込んだ。背筋の寒気がようやく引いてきた。ひどい頭痛もおさまった。病院の注射と玲子の作った粥が効いたようだ。昨夜もあまり眠れなかったせいか、睡魔はすぐに訪れた。もう一眠りすれば病の峠は越せそうだった。
 そのとき、虚ろな目に青い光の点滅が映った。充電していた新堂の携帯電話に着信があったようだ。
 新堂は傷む関節を伸ばして携帯電話をとると伝言を聞いた。
「明日の夜十一時に、所沢にある航空公園のモニュメント塔前で」
 いつもの無機質な佐々木の声が入っていた。
 標的の顔を写した静止画像を見ると、角刈りで冷たい眼差しをした三十代半ばの男だった。牙のない猪を連想させる顔つきだ。首回りがやけに太く、何か格闘技でもやっていそうに見えた。
 最後の標的を仕留めるのが今夜でなくてよかったと思った。まだ体調は万全ではないかもしれないが、明日ならなんとかやれそうだった。
 あとひとりですべてが終わる……
 新堂は深く息を吸った。

 翌日も息苦しいほど蒸し暑かった。
 夕方には航空公園に到着すると、モニュメント塔付近を中心に下見をした。その名のとおり、歴代の飛行機を飾った博物館がある公園だった。遊歩道を少し歩いただけで汗が噴き出す。新堂は何度も公園に設置された水飲み場で水分を補給した。
 公園は暗くなる直前まで、近所の子供たちや親子連れで賑やかだったが、日が暮れてしまうと急に人通りがなくなった。「痴漢に注意」という看板がところどころにあるのを見ると、夜の公園に近づく者はほとんどいないのだろう。
 新堂は、モニュメント塔から少し離れた場所にあるベンチの裏に身を隠すと、コンビニの握り飯を食べた。時計を見ると九時を過ぎていた。防虫スプレーをしていても、首筋を狙ってくる蚊に悩まされた。嫌な汗をかいているせいだろう。手で何度追い払っても、しばらくするとまた不快な羽音が耳に入ってきた。
 時間がたつのがやけに遅く感じた。
 気持ちが普段より高ぶっていた。標的以外の対象に気が散り、集中しようと思えば思うほど、べとつく汗が背中の皮膚から滲んできた。落ち着きを失っているのは、これが最後の仕事だという気負いからなのか、それとも単に蚊の数が多いせいなのかは分からなかった。ただ、蝉たちの身を削るような鳴き声を聞くと、不思議な焦燥感に駆られた。
 公園の時計は、ようやく十一時を指し示そうとしていた。
 トレーナーと手袋を身につけたが、普段よりも手際が悪く、時間がかかった。もたついたのは、まだ少し身体がだるいせいかもしれない。この蒸し暑さだ。風邪の熱は下がったとはいえ、きっとまだ体調が充分ではないのだろう。だが、これが最後の仕事だ。一刻も早く終わらせたかった。
 十一時になった。
 もうすぐ最後の標的がやってくるころだ。ゆっくりと呼吸を整えた。紐も手の平にある。すべてはいつもどおりに運んでいた。ただ蚊の羽音が相変わらず耳障りだった。だが、あまり派手に動いて追い払うこともできなかった。
 新堂は息を殺して待ったが、標的はやってこなかった。もう十一時一五分を過ぎた。相手は時間を間違えたのだろうか。あるいは途中で気が変わってやめたのだろうか。佐々木との約束で、予定時刻から一時間は待つことになっていたが、今までにそんなことはなかった。
 予定が変更になったという連絡が入っているかもしれなかった。ポケットから携帯電話を取り出して、着信があったかどうかを確認しようとしたとき、最後の標的となる男の冷たい視線を思い出した。
 不意に、ある疑問が沸き起こった。
 今の状況は、自分自身がよく目にしていたものと同じではないだろうか。そう、これまでは誰かを待つ標的の姿を、しばらく観察してから仕留めていた。だが、最後の標的はまだ来ていない。それは、自分が標的に待たされているとも言えた。見方を変えれば自分自身が標的にじっと観察されていても不思議ではなかった。
 相手が攻撃を仕掛けるときは、同時に最も相手に隙ができるときでもあるというボクシングのセオリーが脳裏を過ぎった。
 やばいと感じて携帯電話から目を離したとき、突如首に紐が巻きついた。恐ろしいほどの力強さだった。
 なぜ、敵の気配を感じ取ることができなかったのだろう。首を容赦なく絞めつけられながら、新堂は後悔した。蚊の羽音に気を取られたせいか、それとも携帯電話の画面を見ていたからか、あるいは病み上がりで感覚が鈍っていたからなのか。
 新堂は九十パーセントの諦めを感じながら何とか抵抗しようとした。相手の手を掻きむしるような無駄な行為はしなかった。ぐっと身体を前のめりにしてから、思い切り後ろへ下がろうとした。そうすれば背後にいる相手の体勢を崩せるか、自分の身体ごと相手にぶつけることで、締めつける手の力を緩めるができるかもしれない。
 だが、敵は慣れていた。
 その行動をあらかじめ知っていたかのように、敵は新堂の背中に足をあてると、後ろへ下がろうとする出鼻を挫いた。逆に、新堂自身の体勢が崩されて地面に突っ伏してしまった。
 敵の身のこなしは、悔しいほど軽やかだった。新堂の背中にさっと乗ると、また容赦なく首を絞め続けた。敵の体重で、新堂は肺に残っていた空気を思わず吐き出してしまった。体内の酸素が急激に欠乏していくのがはっきりと分る。抵抗するだけの力が身体に入らなくなっていた。
 紐を引く力がさらに強くなる。あと一分以内で確実に「落ちて」しまうだろう。新堂は残された力で最後の抵抗を試みた。首の肉を爪でえぐりながら、絞めつける紐に指を掛けようとした。だが、紐はすでに皮膚の奥深く入りこんでいて、指先でさえ通すことさえできなかった。朦朧とした意識の中で、今まで自分が絞め殺してきた相手も、同じように首の皮膚をかりかりと掻いていたことをふと思い出した。あの行為は、苦しさのあまりもがいていたのではなく、きっと必死に爪を紐へ食い込ませようとしていたのだ。
 もがくような苦しさを感じたのは初めのうちだけだった。意識が途切れがちになるつれて、窒息による苦痛も消えた。もう目の前まで死が近づいているようだ。無駄な抵抗をしている自分がばからしくなった。ボクシングを始めたばかりのころに、巧い先輩が繰り出す攻撃に対して為す術がなかったときと同じ無力感だった。
 自分が死ねば保険金は出る。今までの仕事で借金はほぼ帳消しになっているはずだ。おそらく玲子が大学を無事卒業できるくらいの金は残せそうだった。
 玲子は自分のために線香を上げてくれるだろうかと思った。父親らしいことはなにもできなかったが、大学にいかせてやる準備はしたのだから、それで勘弁してくれないかと伝えたかった。あと、死んでから妻のもとへ行けるのかが心配だった。いままでの仕事で犯した罪はとてつもなく重い。妻はきっと天国で待っているだろうが、自分は多分地獄へ堕ちるだろう。あっちにいってもまた離ればなれになってしまうのは、とても悲しい気がした。
 視界が徐々に暗くなっていく。
 新堂は肺に残された最後の空気をふうっと吐き出した。身体が地面に沈んでいくような気がした。
 リングマットでテンカウントが聞こえても、力尽きて立ち上がることのできない敗者の気分だった。
 試合終了を告げるゴングが鳴った。
 だが、その音はひどく鈍い音だった。
 ふと、首を絞める紐の力が緩んだ。
 肺に新鮮な空気が一気に入ってきた。今までに口にしたどんな料理よりもうまいと感じた。必死に起きあがろうとすると、今まで巨大な岩のように動かなかった相手があっさりとどいてくれた。より正確に言えば、背中に乗っていた角刈りの男は、軽いうなり声を上げてから地面に崩れ落ちた。後頭部から血を流している。息はしているので、単に気絶しただけなのだろう。だが、しばらくの間は起きあがれそうになかった。
 振り返ると、ジーンズに白いパーカーを着た玲子が立っていた。両手で金属バットを握りしめている。
「どうしてここが?」
 新堂は首をさすりながら尋ねた。
「ごめん。父さんの携帯電話を聞いたの。連続絞殺事件が起きた日の夜は、父さんの帰りがいつも遅いもの。なにか事件に関係しているんじゃないかって気になっていた。それに、神田で看板を持つ仕事って、携帯電話なんか必要ないじゃない。私になにか隠していると思った。父さんが病院に行っているとき、家に置いてあった携帯電話が鳴って、つい聞いてしまったの。冷たい男の声の伝言を。それと今まで殺されてきた人たちの顔写真も。父さん、伝言や静止画の消去方法って知らないでしょう。私、全部見ちゃった」
「そうか」
 新堂は観念したようなため息をついた。
「でも、父さんは絶対に人殺しなんてしていない。連続通り魔の犯人はきっとこいつなんだよね。だって父さんも殺そうとしていたんだもの」
 玲子の手はがたがたと震えていた。
 新堂はすべてをうち明けようとした。
 そのとき乾いた音が二発鳴った。
 目の前にいた玲子が、少し驚いた顔をしたまま、紐がぷつりと切れた操り人形のように崩れ落ちた。白いパーカーに黒い穴が開いていた。ひとつは左肩。もうひとつは左胸の心臓部分だった。
「玲子!」
 新堂は叫んだ。彼女を抱き寄せると、薄目を開けたまま小刻みに痙攣していた。白いパーカーがみるみる赤く染まった。
「目撃者はちゃんと消しておかないとな」
 声のしたほうを見ると、グレーのスーツを着た山根がにやつきながら立っていた。右手にはオートマチックの拳銃を持っている。
「俺の娘だぞ。たったひとりの家族なんだぞ」
 新堂は絶叫した。
「誰だって関係ねえ。お前のつめがあまいからこんなことになったんだ。それに、父親が連続殺人犯だってことを知ったら、娘は生きていけねえだろう。逆にいま死んで幸せだったかもしれないぜ」
「なぜ撃ったんだ」
「娘が俺たちのことをばらすとも限らないからな。それに・・・」
 山根は笑った。
「それに、どうした」
「俺は最初から、お前のすかした態度が気に入らなかった。老いぼれた元ボクサーのプライドをぶち壊してやりたかったんだ」
「そんなことのために・・・」
 新堂は涙をぬぐった。
 手の平についた玲子の血が、新堂の顔を赤く染めた。
「あんたはミサだって殺した。好きだったんだろう、あの女が。惚れた女を絞め殺したあんたのことだ。娘が死んだって、きっと二日で忘れるさ」
 山根は片方の頬だけつり上げて笑った。
「俺は、あんたを殺さないと気がすまなくなった」
 新堂はそう呟くとすばやく駆け寄った。
 距離は五メートルもなかった。
「お前も娘と一緒にあの世へ行けばいい」
 山根は手に持っていた銃を構えると、引き金を引いた。
 銃声が二発鳴った。
 新堂は身をかがめながらとっさに横に飛び退いた。弾丸が空気を切り裂く音が顔の横でしたかと思うと、耳がかっと熱くなった。撃たれたようだ。だが、新堂はひるまなかった。手を伸ばして地面の砂をすくい上げると、山根の顔を向けて投げつけた。
 山根は左腕で顔面を覆ったが、反応が少し遅かった。目の中に大量の砂が入ったようだ。必死に瞼を擦りながら何発か銃を撃った。山根の左脇腹ががらあきになっていた。
 新堂は右フックを打ち込んだ。山根は顔を歪めながら銃口を向けた。だが、銃は敵との距離がある程度ある場合は威力を発揮するが、肉弾戦では剣や武術が有利なこともある。新堂は山根の右手首をつかむと締め上げた。
 銃声が宙に向かって轟いた。
「タマは大切に使え」
 新堂はそう言ってから、山根の鼻面を頭突きをした。ボクシングでは反則行為だが、クリンチのときに偶然を装って故意にぶつけてくる者もいる。敵の戦意を失わせるのは効果が絶大だった。
 山根は鼻を押さえてのけぞった。スーツの胸元が鮮血に染まった。新堂は銃を持った右腕の肘を肩に担ぐと折り曲げた。骨が折れる鈍い音と、山根の悲鳴が聞こえた。銃が地面に落ちた。山根は逆方向に曲がった右腕を押さえながらうめき声をあげた。
 山根の顎は無防備だった。
 二十五年ぶりの右アッパーを出した。グローブがないぶん、衝撃がダイレクトに拳に伝わった。顎は確実に砕けたはずだ。山根は地面に崩れ落ちると、口から涎を流して気を失った。
「お前は今までに闘ったどんな相手よりも弱かった」
 新堂は銃を拾うと山根に向けた。頭に狙いを定めて引き金を引こうとした。
 そのとき金属の冷たい感触を首筋に感じた。
「もう勝負はついたでしょう。あなたの右アッパーは今も完璧だ」
 佐々木が銃口を向けていた。
 いつの間にいたのだろう。彼が近づいてきた気配さえ感じなかった。ひょっとして、佐々木は闇金を仕切るチンピラなどではなく、本当の殺し屋なのかもしれないと思った。
「山根は娘を殺した。俺には復讐する権利がある」
「あなたの気持ちは分かる。だが、彼の処分は私にやらせてほしい。山根は命知らずの鉄砲玉としては優秀だが、一度頭に血がのぼるとつまらないことをよくしでかす。彼はあなたに他の仕事を依頼していたようだ」
「ああ、別の殺しをやらないかと誘われた。断ったがな」
「それを知ったとき、嫌な予感がした。山根は根に持つ男だ。割のいい仕事を断られたから、いつか仕返しをしようと考えていたんでしょう」
「今夜が復讐する最後のチャンスだったというわけか」
「あなたには決して手を出すなと言ってあったので、山根自身は迂闊なことはできなかった。だからこんな馬鹿げた計画を思いついたのでしょう。山根は今夜の標的にあらかじめ殺しの手ほどきをしておいて、代わりにあなたを殺害させようとした」
「どうりであんなに手際がよかったわけか」
「山根は、あなたが仕事をしくじって逆に殺されたように見せかけようとした。だが、計画は失敗した。山根はかわりに娘さんの命を奪って仕返しをしたつもりになった。彼は堅気の人間を巻き込んで、筋から外れたことをした。その落とし前はきっちりつけさせる。でもね、あなたは山根を殺すべきじゃない。あいつを殺すといろいろなしがらみが生まれる。裏の世界のね。ただでは済まなくなります」
「しがらみなどどうでもいいさ。俺はこいつを殺せればそれでいい。俺が引き金を引いたあと、あんたも撃てばいいだろう。それですべてが終わる」
「あなたの人生はようやくリセットされた。もう一度考え直して欲しい」
「いくら考えても娘は生き返らない。娘のいない人生を過ごしたいとは思わない」
「私はあなたを撃ちたくない」
「あんたと飲む約束が守れなくて悪かったと思う」
 新堂は静かにそう言うと、引き金にかけた指に力を入れようとした。
 かすかな咳が聞こえた。
 振り向くと、玲子が荒い呼吸をしていた。
 新堂は信じられなかった。
 駆け寄って呼びかけたが、まだ意識はなかった。だが、確かに呼吸をしていた。弾丸は確実に彼女の心臓を貫いているはずだった。新堂は奇跡を見ているようだった。赤く染まったパーカーを脱がせた。赤く染まったTシャツの胸ポケットから、粉々になった強化プラスチックと配線基盤、そしてリチュウム電池の残骸が散乱していた。彼女が買った携帯電話だった。最近買ったばかりのこの小さな器械が、弾丸の進路を変えたのだろうか。いずれにしても、まだ玲子は生きている。だが、出血も普通ではなかった。心臓は守られたかもしれないが、肺や脊髄への損傷も考えられる。一刻の猶予も許されない状況であることは違いなかった。
「公園出口の電話ボックス横にあるベンツを使うといい。病院は道沿いに走って突き当たりを右に曲がって五分ほど走ったところにあるはずです」
 佐々木は車の鍵を渡した。
 新堂は玲子を抱きかかえると出口へと走った。
「私は、ここでのびたやつらをなんとかしなきゃならない。車は病院に乗り捨てておいてください。警察には、娘と散歩していたら突然撃たれたとだけ言えばいい」
 だが、佐々木の言葉は新堂の耳にはすでに入っていなかった。これから先のことなどどうでもよかった。事件の片鱗を知った玲子への説明や、撃たれた娘を病院へ運んでからの対応はあとから考えればよかった。
 いま、新堂は全力で走りながら、心の底から妻にむけて何度も呼びかけていた。
「なあ、京子。もうちょっと待ってくれないか。俺はまだ父親としての仕事を終えちゃいない。これからなんだ」
 胸に抱いた娘の身体は不安になるほど軽かった。両手が血でぬるぬるとすべる。公園の蝉たちは、新堂たちを見守るかのようにしばらくのあいだ鳴きやんでいた。


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