キャッツアイと石頭
篠宮玲子
「ちょっと、いい加減にしてくれない?」
突然私のすぐ横で、苛立った高い声が響いた。混雑した人波に揉まれながら、私は堅い革鞄を両腕に抱え、その声を聞き流す。
朝の車内は、むせ返るほどの人いきれに満ち溢れていた。都内でもラッシュ時の厳しさで一、二を争う千代田線内は、八月も終わりに差しかかろうかという時期を迎え、殺人的な湿気と熱気に襲われていた。
ネクタイを巻いた襟元が、しっとりと濡れている。もう三十年以上も通い慣れた行程なのに、自分が家畜のように運搬されているようなこの感覚には、どうしても慣れることができなかった。
私はギュッと目を閉じたまま、目的の駅に到着するまでの時間を、心の中で数え始めた。しかし、十を数え切らないうちに、私の二の腕が強い力で掴み上げられた。
「おじさん、なに聞こえないフリしてんのよ」
先ほどの高い声が、私の鼓膜に突き刺さる。その苛立たしげな声が自分に向けられていることに、私はその時ようやく気がついた。
ギョッと目を見開き、私は慌てて声のする方向へと視線を向けた。すぐ間近で、一人の若い女性が、険しい顔で私を睨みつけている。
「な、何だね、君?」
「しらばっくれないでよ。さっきから、ずっと人のお尻触りまくってたクセにさ」
尖った声が、私の横面を容赦なくはたいた。私は息を呑んだ。彼女の言葉は、全く身に覚えがなかったのだ。
「何のことを言ってるんだ? 君の勘違いじゃないのか?」
しかし、その女性は、私の言葉を一つも聞こうとはしなかった。彼女の目が先ほどよりもさらにきつく吊り上がる。
「あんたこそ何言ってんのよ。あたしのお尻掴んで揉んでたのはおじさんでしょ。人の気のせいなんかにしないでよ」
強ばった彼女の顔を、私はマジマジと見つめた。年のころは二十代のはじめくらいだろうか。白く小さな顔は、まだあどけなさを残していた。こんな若い娘さんが、なんて直接的なことを言うのだろう。
「さっきからずっと我慢してたけど、もう限界。ただでさえ暑苦しいってのに、いい年こいてウザい真似しないでよね」
彼女の言葉は、機関銃のように私の全身に致命的な打撃を浴びせかけた。
混雑に飽き飽きしていた人々が、あからさまな好奇の眼差しで私と彼女を遠巻きに眺めやっている。彼女には同情と激励と、少しばかりの畏怖の視線を。私には非難と侮蔑と、少しばかりの憐愍をこめて。
「もういい加減諦めて、さっさと謝りなよ。自分のやったことは、ちゃんと自分で責任持ちなさいって、幼稚園で習わなかった?」
「しかし、私の両手はずっと鞄でふさがっていたんだ。そんなことできるはずないだろ」
彼女の視線が、私の顔と私の両腕に抱き込まれた革鞄を往復した。少しだけ眉根から力が抜けた。しかし彼女は、それでも頑なな態度を崩さなかった。
「そんなに言うんだったら、次の駅で降りなよ。駅員さんに、決着つけてもらうから」
私は全身からサッと血の気がひく音を聞いた。駅員に通告されたら、大ごとになるのは目に見えている。私がどんなに無実を主張しても、おそらく誰も私の言葉など信じない。
ここで謝ってしまえば、彼女は許してくれるのだろうか。そんな誘惑が頭の端をよぎったが、冤罪に屈して良いのかと、もう一人の自分が叫んでいる。
その場を逃げようにも、周囲を囲った人垣と、私の腕を掴んだ彼女の手が、逃げることを許さない。私はなす術もなく、冷たい視線の蓆の中でじっと立ちつくした。
千代田線は、暗い穴蔵を快調なスピードで滑り抜ける。このまま地底まで突き進んで、次の駅などに着かなければいい。
しかしそんな私の願いなど叶うはずもなく、無情にも電車は次の駅に到着した。
ガクンという大きな揺れに続いて、電車のドアが滑らかに両側へスライドする。許容量以上に詰め込まれた人波が、開け放たれた空間へ雪崩のように流れ出た。
私の腕を掴んだまま、その流れに乗って彼女もホームへと降り立った。彼女に連行されるままに、私もドアをくぐり抜ける。
その時、私の横を、一人の男が素早く通り抜けていった。まるで私たちを避けるように、長身の若い男は不自然な様子で、そそくさと隣のドアへと移動していく。
ギクシャクとした男の背中が、慌ただしげな乗客の中で異様に浮いて見えた。私が慌てて視線を返すと、彼女も小さく目を見開いて、男の後ろ姿を見送っていた。
「どうしました、お客さん?」
ホームで人員整理をやっていた駅員が駆け寄ってくる。私と彼女が無言でいると、突然、私たちの横に立っていた中年女が、豊かな身体をズイと前に乗り出した。
「この子、痴漢にあったのよ」
彼女を指差し、続いて私を睨みつける。まるで、ゴキブリでも見るような憎々しげな瞳。
「こいつがこの子のお尻を撫で回してたのよ。まったく、気持ち悪いったらありゃしない」
なぜ当人でもないのに、そんなことがわかるのだろうか。驚くというより不思議な気分で中年女の真っ赤な唇を眺めていると、すっかりその言葉を信じ込んでしまった駅員が、固い表情で私へと視線を向けた。
「駅務員室まで、ご同行ください」
私の頭の中で、終焉の鐘の音が高く鳴り響いた。嘲笑を浮かべる職場の人間達の顔が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「あ、駅員さん、ちょっと待って」
絶望感に肩を落とし、トボトボと駅員の後を追った私の背中に、彼女の高い声が追いすがった。私と駅員が揃って振り返ると、彼女は素早く私の手を取って、そのまま自分の臀部にそれを押し付けたのだった。
私の身体は、文字通り芯から凍りついた。フニャリと柔らかい感触が、手の平を押し返す。ここ数十年、これほど柔らかな手触りを私は味わったことがない。
「な、な、何やってんですか、お客さん!」
駅員が目を白黒させながら、私と彼女を交互に見比べた。その横で、あんぐりと大口を開いている中年女。おそらく私も、彼らと同様の顔をしているのだろう。
しかし当の彼女だけは、涼やかな表情を浮かべたまま、何度も確かめるように私の手を自分の尻の膨らみに押し付けた。
「やっぱ、違った。あたしのお尻触ってたの、この人じゃないや」
ようやく私の手を解放した後、彼女は悪びれもせずそう言った。表情を曇らせた駅員が言う。
「どういうことですか?」
「人違いしちゃった。もう一人私の横に違う奴が立ってたんだよね。どうやら痴漢はそっちだったみたい」
瞬間駅員と私は同時に息を吐き出した。駅員は苦々しい溜め息、そして私は安堵の吐息。
「それで、本当の痴漢はどこにいるんです?」
「逃亡中」
言って、彼女はホームの先を指差した。暗い穴蔵の向こうに、小さな灯が消えていく。我々を乗せていた電車は、すでに手の届かないところに逃げ去っていた。
「考えてみれば、こんなしょぼくれたおじさんに痴漢なんてする度胸なかったよね。お騒がせしました」
彼女は一瞬照れたような微笑みを浮かべると、大きな瞳で私の顔を覗き込んだ。ずいぶん整った顔をした子なのだと、私はその時ようやく気が付いた。
「ま、でも気を付けてよね。最近、女の子はみんな神経質になってんだから」
「あ、申し訳ない」
思わず私は謝っていた。
彼女は、それでヨシ、とでもいうように大きな頷きを返すと、ちょうどホームに滑り込んできた電車へと素早くヒラリと飛び乗った。
彼女の小さな身体が、人波の中に消えていく。けたたましいベルが響き渡る中、満員の電車が重そうに発車していく様を、私は呆然と見送った。
考えてみれば、その朝から一日、私の調子は狂いっぱなしだった。
私の職場は、都内の中心部に広いキャンパスを持つY大学にある。工学部校舎三階の六号室。『基礎電子工学教室・石丸教授』と看板が掛けられているその部屋が、私の城であり研究室だった。
まだ誰の姿も見えない無人の研究室を通り抜け、教授室の扉を開ける。机の上の郵便物を確認し、私は肩を落とした。
ダイレクトメールに紛れて届いたその郵便は、先月論文を投稿した海外の出版社からのものだった。結果はリジェクト、つまり不採用。私の研究成果は、世に認められなかった。
これで一体何度目のリジェクトだろう、と溜め息をついた。十一年前に教授のポストを得てから、私は全くといっていいほど、際立った研究成果を出せずにいた。
世の中の技術開発は、今やITからバイオへと移行している。電気工学も生命科学に視点を移したほうがいい、と言われている中で、私は頑なに電気回路の基礎研究を貫いてきた。
前時代の遺物と学内の教員に嘲笑されているのは知っていた。この産学連携の時代に、金にもならない基礎研究を続けて何になるのだ、と。
だが私は、どうしても自分の道を曲げることができなかった。子供の頃から、私を魅了して止まない電気回路。偉大なるその世界に、私利私欲を絡めることはできなかったのだ。
自分で選んだ小道を歩んでいるのだから、世間に受け入れられなくても仕方ない。そう理性では理解していたが、やはりこう何度も続くと、やりきれないのも事実だった。
研究成果が上げられない研究者に、大学側の態度は冷たい。私のもとには、ほぼ毎日のように学内の雑用が舞い込んできた。
今日も例に漏れず、学生への講義を代理で受け持つことになった。そしてその講義の間に、次の事件は起こった。
一時限目の応用物理学。大講義室の中には、数えられる程度の学生達が、飛び石のように散らばっていた。
朝一番の講義は、学生達に敬遠される。出席している学生は、単位目当てでやむなくこの場に縛りつけられている者が大半だった。
今さっきベッドから飛び出したばかりのような寝ぼけ眼の顔の中、階段教室の一番前の席に陣取った男子生徒が、一心不乱に私の言葉に耳を傾けていた。
じっと目を見開き、彼は私の顔を食い入るように見つめている。珍しく勉強熱心な学生がいるものだ、と私の心は少しばかり浮き上がった。
話が半導体の原理にさしかかった時のことだった。その男子学生が、不意に素早く立ち上がった。
「先生、質問があるんですが」
極端に見開かれた彼の大きな瞳を見返して、私は瞬きを返した。彼のポロシャツの襟元が、妙な具合にめくれ上がっている。よっぽどの慌て者なのだろうか。
「何かね?」
「僕の頭の中には変な機械が埋め込まれていて、電磁波で僕を操作するんです。どうしたらいいんでしょう?」
フサフサと豊かな髪が揺れる頭を指差して、彼は言った。私はその場で立ち尽くし、返すべき言葉を模索した。
理論的に考えても、彼の言っていることは全く非現実的なものだった。電磁波がコンピュータを狂わせることはあるが、脳に埋め込まれた機械を通じて人間を操作などできるはずがない。人間の頭の中の何億というシナプスを、どうやって他人が支配できるのだ。
科学的な理論を元に私がそう解説すると、彼の表情が一変した。青白かった頬が一気に紅潮し、続いて彼は癇癪を起こした子供のように、その場で暴れはじめたのだった。
講義室は大騒ぎになった。事務室から事務員が飛んできて、数人がかりで男子学生を私から引き剥がした。喚き立てる男子学生を講義室から連れ出した後、事務員はやれやれといった様子で溜め息交じりに吐き出した。
「時々いるんですよ。電波系とでもいうんですか、妄想と現実が入り乱れているタイプが。そういう人間は相手にしないで、適当に流せば良いんですよ」
だが、質問にはちゃんと答えるのが礼儀だろう。私がそう言うと、事務員は渋い表情を浮かべた。
「石丸先生は、相変わらず厳格ですね。科学者の方は、もっと柔軟な発想をされた方が良いのではないですか?」
それは、私がこの大学で、何度となく繰り返し言われ続けてきた言葉だった。
人生には、何をやっても上手く行かない日がある。その日の晩、その法則を実践するかのように、Y大学工学部長の定年退官記念パーティーが催された。
赤坂プリンスホテルの大ホールを貸し切って、パーティは大々的に開催された。華やかなドレスとスーツ姿の出席者が、ホールいっぱいに溢れ返る。
惜しみない拍手と称賛に包まれ、神野清治工学部長は、満面の笑みを浮かべていた。
就任から六年。多少強引ながら精力的な手腕で工学部を統率してきた神野部長は、定年を迎えて今月いっぱいで退官する予定となっていた。退官後は、某国立研究所の所長のポストが控えている。
笑い声と喧騒に満たされた会場内で、私はぼんやりと人々の様子を眺めていた。立食式のパーティーでは、自分から率先して動かなければ、食事にすらもありつけない。
パーティーに来ると、だいたい人は二通りに分かれる。一つは、常に会話の中心にいる人間。もう一つは、孤独に壁の花を飾る人間。私は、まぎれもなく後者のタイプだった。
「石丸先生、召し上がらないんですか?」
不意に声をかけられ振り向くと、後ろに私の研究室の助教授の鳥越が立っていた。三十代後半で助教授のポストにつき、学内でも特に有望視されている若手ホープである。
私の論文はリジェクト続きだが、彼の論文はここ最近立て続けに有名ジャーナルに掲載されている。研究室が生き永らえているのは、この優秀な助教授のおかげといっても過言ではなかった。
「もしよかったら、これ、召し上がりませんか? まだ手はつけていないんで」
精悍な顔に爽やかな笑顔を浮かべて、鳥越は手に持った皿を差し出した。透き通った白磁の皿の上に、色とりどりの前菜がバランス良く盛りつけられている。
「いや、私はまだいいんだ。それは君が食べてくれ」
そうですか、と少し残念そうに目を細め、鳥越は銀のフォークで器用に前菜を口に運んだ。どんなに努力しても、私には絶対に真似できない流麗な仕草で。
「あ、石丸先生、ちょっとシャツの……」
鳥越の声を掻き消すように、私の背後がざわざわとどよめいた。振り返ると、工学部長の神野が、取り巻きを引き連れてゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
堂々とした体躯を聳やかせて、神野は私の前で足を止めると、親しげな笑顔を浮かべた。
「鳥越君」
鳥越が一瞬気まずそうに私へと視線を流す。私が無言で佇んでいると、鳥越は一拍遅れて神野へと明るい微笑みを返した。
「神野先生、本日は素晴らしい会にお招きいただきまして、ありがとうございます」
「いや、君こそ、忙しいのにわざわざよく来てくれたね」
私には一瞥もくれず、神野は言葉を続けた。
「この間のサイエンスの論文は、非常にアトラクティブだったよ。君のマイクロマシニング技術と斬新な発想には感服した。今度、私の異動が落ち着いたら、ゆっくり君とディスカッションしたいと思ってるんだ」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
鳥越といくつか和やかに言葉を交わした後、神野はようやく私へと顔を向けた。
「やあ、石丸君。君も来ていたのか」
にこやかではあったが、鳥越に対するものよりずっとおざなりな神野の言葉に、私は強ばった笑みを返した。
「この度は、研究所長にご就任されたとのこと、おめでとうございます」
「まったく、せっかく定年になったってのに、休む暇もなくて困るよ」
困っている様子などかけらもない、いかにも得意げな態度で、神野は手に持ったシャンパングラスを揺らした。
「来年には君も定年だね。次の落ち着き先は決まったのかね?」
「いえ、まだ先のことなので」
優秀な研究者は、大学の定年を迎える頃に、方々からオファーが殺到する。しかし私には、他の所からの引き合いはまだ一つもなかった。おそらく今後も、どこからもないだろう。
「まぁ、奥さんとゆっくり余生を楽しむのもいいじゃないか」
琥珀色のシャンパンで唇を湿らせながら、神野は軽い調子で言い捨てた。余生。定年後の私の人生は、余ったものでしかないのだろうか。
「しかし、もう少し身だしなみに気を付けないと、奥さんにも愛想をつかされてしまうんじゃないかね。野暮な男は嫌われるよ」
神野の言葉に、私はキョトンと目を見開いた。なぜいきなり、そんなことを言われなくてはいけないのか。
わけがわからず、呆然と立ち尽くす私の前で、神野はやれやれ、と首を振りながら、鳥越へと視線を戻した。
「さて、鳥越君。悪いがちょっと一緒に来てくれないか。文科省の方に君を紹介したいんだ」
鳥越が再び気まずそうに私へと視線を向ける。私は固い笑顔を浮かべて、頷きを返した。
鳥越を飲み込んで、巨大な人波が私のもとから去っていく。私は手に持ったグラスの中のビールを一息で飲み干した。ぬるいビールは、ただ苦いだけだった。
それからの一時間を、私はひたすら壁の花になって過ごした。パーティーが終わるまで、結局誰とも話さなかった。
閉会の挨拶が終わると、早々に会場を後にした。二次会はどこにしようと、浮かれた会話が周囲に満ち溢れていたが、その問い掛けが私に投げ掛けられることはなかった。
ホテルの外は、夜だというのに濃密な真夏の熱気に満たされていた。ネクタイを緩め、襟元をくつろげる。その時、私は初めて、自分のワイシャツの襟元がめくれ上がっていることに気がついた。
慌てて首筋に手を伸ばし、襟が完全に立ち上がっているのを再確認する。全身が、一気に重くなっていく。神野の冷ややかな瞳と、昼間の男子学生の取りつかれたような瞳が、頭の中でグルグルと交錯した。
ひどく疲れた身体を引き摺り、赤坂の駅から千代田線に乗った。ちょうど空いている席を見つけ、一も二もなくそこに座った。
堅いのだか柔らかいのだかわからないシートが、私の身体を受け止める。自分が沈んでいく気がした。小刻みの揺れが浸透する。
睡魔はあっという間にやってきた。
「ちょっとおじさん、起きなよ」
突然のその声に、深くまで沈み込んでいた私の意識が急速に浮上した。引き摺り上げられるような蜉蝣感。続いて眩しいほどの光が、私の視界の中に飛び込んできた。
「おじさん、酔っぱらってんの?」
白々とした蛍光灯の輝きを背景に、一人の若い女性がじっと私の顔を覗き込んでいた。その顔は、どこかで見覚えのあるような気もしたが、すぐには思い出せなかった。
「いま、変な男がおじさんの背広の胸元漁ろうとしてたんだよ。気付かなかったの?」
寝起きの緩んだ頭に、彼女の高い声がキンキンと響く。しばらくぼんやりと、彼女の上気した顔を見上げた。目の下に、少しだけ隈が浮いている。
「おーい、しっかりしろ。生きてるかーい?」
言って、彼女は私の目の前に手の平をヒラヒラとかざした。細い華奢な指先がモンシロチョウのように羽ばたく様を眺めているうちに、少しずつ記憶の欠片が舞い戻ってきた。
「あれ、君は確か今朝の……」
「やっと気付いたの? 反応遅すぎ」
私の返答に、彼女は苦笑を浮かべた。あどけないその顔は、今朝私を痴漢呼ばわりした時の険しい表情とは、全く別人のようだった。
なぜ、今朝出会ったこの子が、私の目の前にいるのだろうか。まだ夢の中なのではないのかと辺りを見回したが、そこはどう見ても乗り慣れた千代田線の車内だった。
空気の漏れるような音と共に、電車の扉が閉ざされた。明るい駅のホームから、暗い夜の街並みへと、車窓の風景が変わっていく。今の駅は、どこだったのだろう。
キョロキョロと視線をさ迷わせる私の前で、彼女が溜め息交じりに腕を組んだ。
「なんか、ずいぶんボケてるね。それで、人生の荒波ホントに渡って来れたの?」
「申し訳ない」
またしても私は素直に謝っていた。この子の言葉には、何となく人を納得させるような力があった。
「ま、何も盗られてないみたいだから、よかったけどね」
頬を微かに膨らませて、彼女は私の隣の席に無造作に腰を下ろした。うーん、と小さく唸りながら伸びをする。その仕草は、家の近所の野良猫の姿を連想させた。
「おじさんの駅って、どこなの?」
不意に視線を向けられ、私は条件反射で答えてしまった。
「北柏だが」
「あと四駅目か。うん、いいよ。あたしもそこまで付き合ったげる」
当たり前のようにそう告げられた彼女の言葉は、私には理解不能なものだった。
「な、何を言ってるんだ?」
「また寝ちゃったら、大変じゃん。おじさんの駅まで送ってあげるよ」
「そ、そんなこと、困るよ」
「いいのいいの、遠慮しない」
口ごもる私の前で、彼女は勢い良く椅子から立ち上がると、笑いを含んだ大きな瞳で私をじっと見下ろした。
「その代わり、ラーメンおごらせてあげるから」
何とも辻褄の合わない話だったが、やはり彼女の言葉には抗いがたい力があった。私は反論すべき言葉も見つからず、今日初めて出会ったばかりの彼女の顔を、不思議な気分で眺めやった。
彼女の他愛もない話を聞いているうちに、電車は瞬く間に北柏の駅へと到着した。
電車を降り、彼女に促されるままに、駅前のロータリーに店を出しているラーメン屋の屋台ののれんをくぐった。以前から、この屋台の存在は知っていたが、実際に入ったのは初めてだった。
ラーメンができ上がるまでの短い間に、お互いの名前を交換した。「ほのか」と一言名乗った後、彼女は差し出されたラーメンの器に文字通り飛びついた。
「んー、やっぱ夜中のラーメンはサイコー」
褐色の汁につかったラーメンをすすり上げ、ほのかは恍惚の表情を浮かべた。
なぜたったラーメン一杯で、こんなに幸せそうな顔ができるのだろう。いまの若者は、それほど幸せを感じる瞬間が少ないのだろうか。
私は箸を持った手を宙に浮かせたまま、蕩けるように綻んだほのかの唇が、黄色い麺を頬張る光景を見つめた。ズルズルと勢いのよい音が、夜のロータリーに響き渡る。
「どしたの? おじさんももっとシャキシャキ食べなよ。味付け玉子、おいしいよ」
「いや、私はもう十分食べてきたから」
「何言ってんの。飲んだ後のラーメンは鉄則じゃない。ケーキとラーメンは別腹なんだから、大丈夫」
一体どういう根拠なのか、私には全く理解できなかった。別腹と言われても、牛ではあるまいし、人の身体にいくつも胃袋があったらたまったものではない。
「自分でお金出すからって、食べ物粗末にしちゃいけないよ」
言って、ほのかはしなちくをポイと口の中に放り込んだ。彼女と自分の常識が恐ろしいほどかけ離れていることを、私は痛いほど実感した。
ラーメンを一房すくって口元に寄せながら、私は自分が直面している不思議な現状に思いを馳せた。
今日は本当に、予想外のことが起こる日だ。痴漢に間違えられ、男子学生に殴りかかられ、学部長に鼻先であしらわれ、そして真夜中に見知らぬ少女と屋台でラーメンを食べている。
ここまで続けば、あとは何が起こっても、大抵のことでは驚かないような気がした。
醤油の味しか感じられないちぢれ麺をチュルチュルと吸い上げた後、私は口を開いた。
「それにしても、女の子がこんな遅くまで出歩いているのは、感心しないな」
ほのかはチラリと私に視線を向けると、少しばかり心外そうに頬を膨らませた。
「あたしはれっきとした仕事帰り。新米美容師は、遅くまでこき使われてナンボなのよ」
私は目を見開いてほのかを見た。下着としか思えないほど露出度の高い洋服。てっきり、夜遊びの帰りかと思っていた。
「美容師なのかい?」
「そう。表参道の『グリーク』ってお店ね。いま大人気の店なんだ。あ、でも、カリスマ美容師みたいなエセ物はいないんだよ。ウチの店長は、正真正銘モッズ並みのクオリティ」
私は箸を握り締め、脂の浮いたスープの表面を見つめた。ほのかの言っている言葉の中で、わからない単語が山ほどある。
「半年くらい前から勤めてんだけど、すっごいキビしいの。朝は一番早くお店に行って、夜は最後まで居残り練習。なのに、今でもシャワー台以外の担当持たせてもらってないんだ」
「そんなに美容師っていうのは、大変なのか」
「そうだよ。チャラチャラいい加減に髪切ってるワケじゃないんだよ。血と汗と涙の苦労のワザなんだから。おじさんも、美容院行ったら、そこらへんちゃんと感謝してよね」
私は思わず指先でポリポリと頭を掻いていた。自慢ではないが、私は美容院などというところに行ったことがない。
「私はいつも床屋だから」
ボソリと呟くと、ほのかが信じられないというように私の横顔を見つめた。
「だから、そんな冴えない頭してんだ」
そんなことを言われたら、近所のバーバー『テラサキ』の親父が泣いてしまう。
「だったら、今度ウチの店に来なよ。カッコいい頭にしてあげるから」
ほのかは小さなナイロン製のバックの中から一枚の名刺を取り出すと、私の背広のポケットに素早く差し入れた。
「メッシュとか入れてみたら?」
メッシュという状態がどういうものかはわからないが、嫌な予感だけはする。私はあいまいな笑顔を浮かべて、とりあえず頷いた。
「そうだな、今度機会があったら」
「そう言って、家に帰ったら速攻その名刺捨てるんでしょ。あー、ヤダヤダ。大人って、社交辞令ばっかなんだよね」
投げ捨てるようなほのかの口調は、奇妙に大人びていた。
「君だって、大人じゃないか」
「まだ大人じゃないよ。十八歳。正真正銘の未成年」
「未成年の子が、こんな時間までフラついていて、親御さんは何も言わないのか?」
「だってあたし、一人暮らしだもん。親はずっと遠くにいるし、気楽でいいよ」
私は箸を動かす手を止めて、ほのかの得意げな横顔を眺めた。まだ赤ん坊のような張りのある頬に、薄く化粧がのっている。
十代ですでに親元から離れ、自活して生きている。そんなに早く人生を駆け抜けて、この子は一体何を目指しているのだろう。
「おじさん、ナルトもらうね」
言い終わらないうちに、私の器からヒョイとそれを摘み上げ、口の中に放り込んだ。
「満腹。ごちそうさまでした」
えへへ、と笑う笑顔があどけない。思わず私はほのかの顔に見入っていた。
下り電車が到着したのか、ロータリーの中がにわかに騒々しくなった。タクシー待ちの列がロータリーの横まで並び、車のライトが夜の街の中に浮かんでは消えていく。
屋台に座ってその光景を見ていると、まるで映画の一シーンを傍観しているような気持ちになった。ドキュメンタリー・北柏の真実。
私は今まで、画面の向こう側の流れる風景の一部でしかなかった。それが今晩は、十八歳の少女と肩を並べて観覧している。人生は、何が起こるかわからない。
「おい、てめぇ!」
屋台の横に並んだタクシー待ちの列から、いきなり苛立たしげな声が沸き上がった。ドスのきいた、粗暴な感じの男の声。
屋台ののれんを掻き分けると、列の真ん中で、一人のずんぐりとしたスキンヘッドの男が、自分の前に並ぶ若いサラリーマンに詰め寄っていた。
「前空いてんだろうが。さっさと列詰めろや」
次から次へとやってくるタクシーに吸い込まれ、列は順調に短くなっていく。しかしサラリーマンはその場にじっと立ち尽くして、前進しようとしなかった。
「てめぇ、聞いてんのかよ!」
激しい怒声が、真夜中のロータリーに響き渡る。私の横で、ほのかがグラスの水を飲み干しながら、煩わしそうに吐き捨てた。
「うるさいなぁ」
都会で生活している人間には、よくある日常の光景。しかし、生まれて初めて観客になった私は、スクリーンの中で繰り広げられるドラマから目を離すことができなかった。
スキンヘッドが何度か声を張り上げたが、サラリーマンは動こうともしない。空中の一点を凝視し続ける彼の横顔には、ある種の張り詰めた色が覗いていた。
私は小さく息を呑んだ。彼のワイシャツの襟元が、妙な具合にめくれ上がっている。
「並ぶ気がねぇなら、とっとと失せな!」
次の瞬間、スキンヘッドがサラリーマンの背中をいきなり乱暴に突き飛ばした。驚くほどあっけなく、サラリーマンの身体が地面の上に倒れ込む。
「トロい野郎だな。これだから、リーマンって奴はよ」
口汚くそう吐き捨てて、スキンヘッドは彼の横を素早く通り抜けた。サラリーマンを追い越して、前方の列へと歩みを進める。
哀れな弱いサラリーマン。その場にいる誰もが、彼の退場を確信した。しかし、予想は大きく覆った。それまで微動だにしなかったサラリーマンの顔が、見る間に紅潮していったのだ。
「ま、待ってください。僕が先に並んでいたんですよ……」
消え入りそうなか細い声が、スキンヘッドの背中に追いすがる。地面から立ち上がり、サラリーマンは見開いた瞳で、真っ直ぐにスキンヘッドの後頭部を睨みつけた。
「割り込みは、やめてください」
「んだと?」
スキンヘッドの剣呑な顔が、サラリーマンを振り返った。
「てめぇが動かねぇのが悪いんだろうが。変な言いがかりつけんじゃねぇよ」
「で、でも、僕が並んでいたんです。勝手に僕の前に入るのは、どう考えてもズル込みでしょう?」
「何がズルだ。ふざけんじゃねぇよ、この野郎!」
荒々しい怒声を張り上げて、スキンヘッドがサラリーマンの胸ぐらを掴み上げた。
「おら、もう一度言ってみろや!」
間近で強面に凄まれて、サラリーマンの顔が蒼白へと変色していく。引き攣った頬を歪ませて、助けを求めるように周囲に視線を送ったが、列に並んだ人々は、そそくさと遠ざかるだけだった。
「よそ見してんじゃねぇよ。舐めてんのか、てめぇ!」
スキンヘッドがサラリーマンの胸元を乱暴に揺すり上げる。彼の頭が振り子のようにガクガクと前後に揺れた。
怯えた小動物のような瞳が、スキンヘッドを睨みつける。その追い詰められた表情を目に留めて、私の脳裏に一つの顔が浮かび上がった。電磁波で自分が操作されていると訴えてきた、あの男子学生の蒼白な顔。
「てめぇみたいな貧弱なリーマン見てっと、虫酸が走んだよ。大した仕事もしてねぇくせに、デケェ面しやがって」
スキンヘッドが、忌々しげに口元をひねり上げる。嘲弄混じりのスキンヘッドの言葉を浴びて、彼の頬が小刻みに痙攣しはじめた。
「どうせてめぇなんざ、会社のお荷物なんだろうが。使えなさそうな面してるしな。役立たずは役立たずらしく、リストラでも何でもなって、社会に出てくんじゃねぇよ」
「……がう」
震えるサラリーマンの口から、途切れた低い呟きが漏れた。スキンヘッドが眉を顰めて首をひねる。
「んだよ、てめぇ?」
「違う、僕は、役立たずなんかじゃないっ!」
裏返った絶叫とともに、サラリーマンの腕がゆっくりと持ち上がる。ハッと息を呑んだ瞬間、振り上げられた彼の黒いブリーフケースが、スキンヘッドの横っ面に叩き込まれた。
大きな重い音が、混みあったロータリーに響き渡る。一気に凍りついた人々の目の前で、スキンヘッドの巨体がグラリと揺れた。
胸元を開放され、サラリーマンは、自由になった身体でさらに一撃、二撃とブリーフケースを振り回す。肉を打つ鈍い音が夜の闇の中に飲み込まれていった。
彼を止める人間は、誰もいない。その場に集まった人々は、ただ呆然と目の前で繰り広げられる異常な光景を見つめていた。
言葉にならない奇声を上げて、サラリーマンが四撃目を振りかぶる。しかし、それが振り降ろされる一瞬前に、それまで無抵抗だったスキンヘッドが、彼の鞄を素早く両手で掴み上げた。
「あんま調子に乗んじゃねぇよ!」
血が滲んだ唇をひねり上げ、スキンヘッドは、サラリーマンの手からブリーフケースをもぎ取ると、力任せに地面へと叩き付けた。
激しい衝撃音に、サラリーマンの身体が海老のように跳ね上がる。唯一の武器が失われ、形成は逆転したかに見えた。
地面に投げ出された衝撃で、ブリーフケースのポケットから、細長い物体がコロッと転がり落ちたのを、私は視線の端でとらえた。一体何なのか、と顔を向ける暇もなく、サラリーマンの小柄な身体が、その物体へと飛びついた。
サラリーマンの動きは素早かった。手にした細長い物から何かを抜き取り、スキンヘッドへと向き直る。彼の手の中に握り込まれた物を認めたとたん、人だかりの中から、小さな悲鳴が沸き上がった。
ネオンの灯に照らし出され、大型のカッターナイフが、鋭い硬質の輝きを放つ。私は呼吸も忘れて、ナイフを構えるサラリーマンの血走った瞳を凝視した。
信じられない。人が、本気で他人にナイフを向けている。こんな場面に遭遇するのは、もちろん生まれて初めてだった。これは映画ではない。紛れもなく現実なのだ。
「お、おい。何のつもりだ……」
さすがのスキンヘッドも、顔色を変えてその場に立ち尽くした。次に続く言葉もない。
重く張り詰めた沈黙が、ロータリーを支配する。車のクラクションの音が、さらに緊迫感に拍車をかける。
冷たく凍りついた、長い長い静寂。一体この緊張はどこまで続くのだろうと息をひそめていると、私の横で、ほのかの身体が小さく揺れた。
「お巡りさーん、早く来てください!」
高く澄んだ女の声が、緊迫したロータリーに響き渡る。呪縛から解き放たれたように、その場の空気が氷解した。
サラリーマンがハッと辺りを見回した。周囲を取り囲んだ人々と、無言で立ち尽くすスキンヘッドの顔を確認し、そして最後に、自分の手に握られた、黄色いカッターナイフを見下ろした。
「こんな、僕はこんなつもりじゃ……」
擦れた声を振り絞り、彼は一気に身を翻した。ナイフを握り締めたまま、大通りへ向かって彼の背中が疾走する。
私の横で、ほのかが素早く立ち上がった。
「待ちなよ、逃げてどうすんの!」
屋台から飛び出して、ほのかはその場に集まった人垣をぐるりと見渡した。
「警察呼んで!」
近くにいたOLが慌てて携帯電話を取りだす姿を確認し、続けてほのかは私へと視線を向けた。
「おじさん、追っかけるよ!」
なぜ私が。そう問い掛ける暇もなく、ほのかは私を引き摺るように立ち上がらせると、夜の街へと駆け出した。
サラリーマンの後ろ姿が、大通りへと消えていく。私の前を走りながら、ほのかが小さく舌打ちした。
「あの先って、人混みとかあったりする?」
「いや、夜はほとんど車しか走らない。閑散としたもんだ」
「じゃ、見失わないね」
不敵に唇を吊り上げて、ほのかはさらにスピードを上げた。華奢な背中が遠ざかる。闇の中でしなやかに跳ね上がるその姿は、まさしく猫そのものだった。
私は全身の力を振り絞り、ほのかの後を追った。すでに息が上がっている。全力疾走など、何年ぶりだろうか。退化した筋肉は、なかなか私の思い通りには動かなかった。
「おじさん、早く!」
大通りの角で私を振り返り、ほのかは叫んだ。早くといわれても、これが限界。私はもつれる足を精いっぱい回転させて、何とか彼女の元に駆け寄った。
大通りの先に、背広の背中が揺れている。どうやら見失わなかったようだ。
「さ、行こう! 絶対に追いつかなきゃ」
「警察に、任せた方がいいんじゃないか?」
ゼーゼーと荒い息をつきながら、私は理性の限りを働かせてそう主張した。しかし、ほのかは小さく首を横に振り、聞き入れようとはしなかった。
「警察はあの人の顔、知らないじゃない。あたし達がやらないで、他に誰ができるのよ」
しかし、ポンコツ老人と十八歳の少女では、どうやったって限界がある。心の中に溢れ返る弱音と打算にくじけそうになった私の前で、ほのかが微かに眉根を寄せた。
「捕まえてあげなきゃ、あの人可哀相。きっと一生うなされる」
私はほのかの横顔を見上げた。丸みのある白い頬が紅潮している。何秒間か逡巡した後、私は心を決めて大きな頷きを返した。
「わかったよ。行こう」
ほのかの桃色の唇が、うっすらと吊り上がる。再び華奢な身体が、夜の闇の中にしなやかに伸び上がった。
サラリーマンとの距離は、もう大分開いていた。しかしこの少女なら、そんな距離などあっという間に飛び越していくに違いない。
ほのかの背中を見つめて、私は全力で走った。私と彼女以外の風景が、風のように後方へと流れ去っていく。夜の街を駆け抜けながら、私は追いかけっこに夢中になった少年時代を思い出した。
ススキの葉が生い茂る薮の中を、日が暮れるまで一日中走り回った。私は足が遅くて、いつもすぐに鬼に捕まってしまう。半ベソをかきながら皆の後を追うと、仲間達は明るい笑い声を上げて私の周りを駆け回った。
塩辛くて、甘酸っぱい思い出。遊び疲れて、夢も見ないほど深い眠りに落ちたあの日々は、もう二度と還らない。
サラリーマンの後ろ姿が、少しだけ大きくなってきた。私たちの追跡に気付いているのだろうか。後ろを一度も振り返ることもなく、彼はただ何かに駆り立てられるように滅茶苦茶に足を進めていた。
めくれ上がった襟元が、夜の深い闇の中で、心許なく揺れている。早くあの襟を直してやらなきゃ。そんな思いが、唐突に私の中に沸き上がった。
そのまましばらく大通り沿いを疾走し、やがて彼は、コンビニエンスストアの角を曲がって細い横道に駆け込んで行った。
ほのかの後ろ姿が、彼の後を追って横道に消える。大分遅れて、私も角を回り込んだ。
先程と同じようにサラリーマンとほのかの後ろ姿があるものと思っていた。しかし予想に反して、街灯のまばらな暗い夜道の中には、彼女の姿しか見当たらなかった。
深い夜の闇の中に立ち竦んで、ほのかは目の前の白い建物を睨みつけていた。毛を逆立てた猫が、一匹そこにいる。
「どうしたんだ? 彼はどこに行ったんだ?」
駆け寄ってそう問い掛けると、ほのかは無言で目の前の建物を指差した。『カシミール北柏』と書かれた看板と、整備されたマンションのエントランスが目に飛び込む。
「彼は、ここに入ったのかい? だったら、中に入ってみよう」
「ダメ。よく見てよ」
強ばったほのかの声に促されて目を凝らすと、ガラス扉の横に備え付けられた銀色の文字盤に気が付いた。最近よく見かける、オートロック式の扉。
「くそっ、せっかくここまで追いついたのに」
そう吐き捨てて、ほのかは苛立たしそうに唇を噛んだ。女の子がそんな言葉遣いをしてはいけないよ、などと呑気な注意をする気にはなれなかった。私だって、必死の想いでここまで疾走してきたのだ。
堅く閉ざされたガラス扉の前で、しばらく立ち尽くした。呼吸が整うにつれて、次第に落ち着きも舞い戻ってくる。
「とりあえず、警察にこのマンションの場所を連絡しよう。あとは、警察が何とかしてくれるよ」
私の言葉に渋々と頷きを返し、ほのかはズボンの尻ポケットから携帯電話を取り出した。一一〇番の交換手にかいつまんで状況を説明し、名前も告げずに電話を切る。
小さな溜め息を吐き出して、ほのかは再び、オートロックの扉を苦々しげに眺めやった。
「あの人、思い詰めた顔してたよね」
私は、ゆっくりとほのかの横顔に目を向けた。真っ直ぐに前方を睨み据える彼女の顔には、それまでの不敵な色が消え去り、代わって気遣わしげな表情が浮かんでいた。
「なんで、カッターナイフなんか持ってたんだろ。普通の人は、護身用でもあんな物騒なもの持ち歩かないよね」
言われて、私も息を呑んだ。確かに、ほのかの言う通りだった。スキンヘッドの男ならまだわかるが、あのサラリーマンが日常的にナイフを持ち歩く必然性など、どこにもない。
一体何に使おうと思っていたのか。何を切ろうとしていたのか。いや、何を断ち切ろうと考えているのか……。
「あの状態で一人になったら、あの人どうなるんだろ。何か、すごく嫌な予感がする」
擦れたほのかの堅い声が、私の不安を代弁した。夜の暗闇が、重く全身にのしかかる。冷たい流氷のような感触が、足先からヒタヒタと身体を這い上がってくる。
「どうしよう。警察が来るまでなんて、待ってられない……」
震えるほのかの白い頬を見つめながら、私は唇を噛み締めた。どうすればいいのだろう。もし私が警官ならば、すぐさま管理人にこの扉を開けさせることができるのに。単なる一介の大学教授は、こんなにも役立たない。
通い慣れた研究室の光景を思い浮かべた時、心の端にふと何か触れるものがあった。
立ち竦むほのかをその場に置いて、私はゆっくりとマンションの扉に歩み寄った。優美な外観を一発でぶち壊しにするような、武骨な銀色の文字盤を覗き込む。
すこしばかり変色した文字盤を眺めているうちに、私の身体の奥底で、今まで眠っていた何かが目を覚ました。
「ずいぶん旧型のロックシステムだな。何とかなるかもしれない」
鞄を床に置き、そこから工具袋を取り出した。使い込んだドライバーセットからプラスのドライバーを引き抜く。子供の時から片時も手放したことのない、私の手足。
いつの間に歩み寄ってきたのだろう。横から覗き込んできたほのかが、私の手の中の鈍い輝きを認めて、小さく息を呑んだ。
「何それ、おじさん何する気?」
驚きを隠せないその声に、私の心が浮き上がる。今まで彼女に驚かされっぱなしだったが、今は逆に自分が彼女を驚かせている。
私は銀色の文字盤を手で探りながら、視線だけを彼女に向けた。自然と口元が綻んだ。
「ここのボックスの中の配線を遮断して、電流の供給を一時的にストップすれば、手動で扉が開くかもしれない」
そんなことをすれば、警備システムが働いてたちまち警備会社が飛んでくるだろう。しかし、すでに警察は呼んでいるのだ。どうにでもなれ、と驚くほど気持ちが大きくなった。
文字盤の横のビスを外す私の手の動きを見つめながら、ほのかが目を丸くした。
「スゴイ。何でそんなこと知ってるの? もしかしておじさん、キャッツアイの仲間?」
なぜいきなりここでネコの目が出てくるのかわからなかったが、なんとなくその響きは、彼女に似合った。私は頬を緩ませて、めったに浮かべたことのない笑顔を彼女に向けた。
「私は大学で電気を研究しているんだ。これくらい知っていなきゃ、おかしいよ」
「へぇ、大学のセンセ」
ほのかの目がさらに丸くなる。キャッツアイが輝いている。
「じゃ、先生はそこをブッ壊しといて」
言って、ほのかは素早く身を翻した。何をするのかと目を向けると、彼女は道の向こうまで駆けていき、マンションの上層を見上げていた。サラリーマンの部屋を確認する気らしい。頭の回転の良い子だ。
私はほのかに背中を預け、自分の作業に取り掛かった。手早く文字盤の捩を取り去り、蓋を開ける。中から現れた配線を覗き込み、注意深くまさぐった。
工具袋から取り出したペンチで、慎重にラインを断ち切った。プツッ、プツッという乾いた音とともに、電子の流れが切れていく。
微細な電子が、私の思うがままに翻弄されていく様が脳裏に浮かんだ。私は今、まさにこのシステムの支配者なのだ。
最後の赤いラインを切断した瞬間、ブゥンと微かな音とともに、固く閉ざされていたガラス扉の間に、微かな隙間が空いた。
「成功だ!」
興奮に擦れた声でそう言うと、ほのかもまた瞳を輝かせて私を見た。
「五階の一番端の部屋の明かりがついたよ」
「よし、行こう」
工具袋を鞄にしまい、私はガラス扉に飛びついた。薄く開いた隙間に指を差し入れ、力いっぱい体重をかけると、ガラス扉はゆっくりと横へスライドした。
三十センチほど空いた隙間を擦り抜け、エントランスに踏み込む。続けて入ってきたほのかとともに、エレベーターで五階に向かった。
「こっちだよ」
ほのかが先に立って歩みを進める。同じような扉が並ぶ廊下を通り抜け、一番突き当たりの扉の前で足を止めた。
『吉崎満』と書かれたネームプレートを確認し、インターホンのボタンを押す。案の定、応答は全く返ってこない。
一瞬ほのかと視線を交わし、私はドアノブに手をかけた。これで鍵がかかっていたらなす術なし、と思ったが、ノブは何の手ごたえもなく簡単に回った。
カチャリと金属が触れ合う微かな音と共に、玄関の扉がゆっくりと開いた。その扉のすぐ向こうに、見覚えのある背広の背中がうずくまっている。
「来るな! 僕は何も悪くない。僕は何もやっていない」
背中を丸め、膝を抱き、彼は傷ついたネズミのように小刻みに震えていた。黄色のカッターナイフを手首に当て、しかしそれ以上は動けずに、ただただ擦れた嗚咽を繰り返している。
「なんで、上手くいかないんだ。僕が、一体何をしたって言うんだ。なんで、僕ばっかりダメなんだ……」
何と声をかけてよいかわからず、私が無言で立ち竦んでいると、ほのかがゆっくりと彼の横にしゃがみ込んだ。
「ダメだって思うから、ダメなんじゃない?」
男のすすり泣きに重ねて、ほのかの凛とした声が言葉を紡ぐ。
「ダメだから因縁つけられて、ダメだからナイフ持って、ダメだから逃げ出して。それでその先どうするわけ? ダメだから死んじゃうの?」
死という言葉に、男の背中がビクッと大きく震え上がった。私が慌てて視線を向けると、ほのかは落ち着いた強い眼差しで、男の顔を真っ直ぐに覗き込んでいた。
「なんで、自分がダメじゃないって思わないわけ? 自分を褒めないで、どうすんの? 自分のことを一番認めてあげられるのは、結局自分しかいないじゃない」
厳しく言い捨てたほのかの顔を、私はじっと見つめた。その横顔は、思わずドキリとするほど毅然とした色に満ちていた。
自分のことを、自分が認めないでどうするのだ。きっとこの子は、いつもそう自分に言い聞かせて生きてきたのだろう。
「みんなが僕をバカにするんだ。課長も親父も美由紀も高橋も、みんな揃って僕を役立たずだってのけ者にする。あんな見ず知らずの男にまで……」
しゃくり上げながら、男が裏返った声を喉の奥から振り絞った。
「なんで上手くいかないんだ。こんなに頑張ってるのに。僕はいつも、一生懸命なのに……」
「当たり前じゃん。みんな頑張ってんだよ。嫌なことがあっても頑張って、それでも上手くいかずにジタバタしてる。あんたと一緒だよ」
痙攣する男の瞼を見下ろしながら、ほのかは白い頬をうっすらと綻ばせた。
「でも、確かにあんたは頑張った。私とおじさんはちゃんと見てたよ。あんなタチ悪そうなおっさん相手に、ちゃんと立ち向かってたじゃん。相当カッコ良かったよ」
涙に濡れた顔を上げて、男が驚いたようにほのかの顔へと目をやった。ほのかは、薄桃色の唇をニヤリと不敵に吊り上げて、男の目の前へと細い指先を差し出した。
「ねぇ、だから、もうそんなモンに頼るのはやめようよ」
男の濡れた瞳が、何度も瞬きを繰り返す。ほのかの顔と、差し出された指先を交互に見つめ、全身から力を抜いた。
甲高い音と共に、男の手から滑り落ちたカッターナイフが、玄関の堅い床に転がった。ほのかが素早くそれを拾い上げ、ほっと小さく息をついた。
私は脱力した男の背中へ視線を向けた。ワイシャツの襟の下で、白い首筋が小刻みに震えている。私はゆっくりと指を伸ばし、めくれ上がったその襟をそっと静かに折り畳んだ。
薄暗い玄関の中に、押し殺したすすり泣きが反響する。パトカーのサイレンが、遠くで鳴り響いていた。
数分後に到着した警察により、吉崎満、そして私とほのかは地元の警察署に連れていかれた。
吉崎は傷害の容疑で別室に連れられ、そして私とほのかもまた、何人もの刑事に取り囲まれて事情を聞かれた。
北柏駅前の事件のあらましから、吉崎を追いかける経緯、そしてマンションに踏み入るところまで。
刑事達の顔を曇らせたのは、マンションのオートロックを解除した過程だった。これは立派な器物破損と住居侵入である。
もし大学に知られたら、職を失う可能性も大いにある。しかし私の心には、今朝の痴漢騒ぎに感じたような焦りはまったくなかった。なるようになれ。どうせ来年は定年なのだ。
数度にわたる事情聴取の結果、結局私の行為は始末書一枚と厳重注意で不問にされることになった。別室に連行された吉崎が、自分の自殺を止めてくれた、と涙ながらに語ったのが、功を奏したのだという。
あのスキンヘッドの男と、北柏駅の目撃者数人も警察署で事情を聞かれていた。最初に手を出したのは、スキンヘッドの男である。目撃者と私達の双方の証言から、おそらく吉崎の処分は、さほど重いものにはならないだろう、と担当刑事は最後に教えてくれた。
金一封を催促するほのかの口を塞ぎ、ようやく警察署の表玄関をくぐったのは、午前三時過ぎだった。
警察署から一歩足を踏み出すと、街は重い夜の闇と深い静寂に沈み込んでいた。どんよりと粘ついた湿気が、全身にまとわりつく。
「あーっ、もう融通が利かないったらありゃしない。だから警察って嫌いなのよ」
両腕をブンブンと振り回し、ほのかは忌々しげに吐き捨てた。その様子からは、疲れは全く感じられない。
「ま、でも面白かったね」
晴れ渡った笑顔を浮かべて、ほのかは私に視線を向けた。闇の中で、キャッツアイが明るく輝く。
「あたしとおじさんだけの秘密だよ」
私は大きく頷きを返した。
誰に言っても信じてはもらえないだろう。私が十八歳の少女とともに、傷害事件を解決した、など。自分ですらも信じられない。
静まり返った真夜中の街を、ほのかと肩を並べて歩き始める。美容師志望の少女と、定年間近の老科学者。一日前は想像もしなかった不思議な現実がそこにあった。
「送っていくよ。どこに住んでるんだ?」
「新松戸」
私は大きく目を見開いた。新松戸と言ったら、この北柏よりも四つも手前の駅である。
「私に声を掛けてくれた駅じゃないか。何で、そこで降りなかったんだ?」
「だって、降りようとしたら、おじさんのそばに変な男が近寄ってくんだもん。ほっとけないでしょ、人として」
肩をすくめて、ほのかはペロリと舌を出した。感謝すればいいのか、注意すればいいのか。結局どちらもできずに、私は苦笑交じりでほのかに言った。
「タクシーで送っていこう」
「いいよ、勿体ない。歩くから」
「こんな真夜中に、若い娘にそんな危ない真似させられるわけないだろ」
「なんかおじさん、さっきと全然態度違う」
そう言って、ほのかは白い頬をプクリと大きく膨らませた。
「さっきオートロックぶっ壊した時は、メチャメチャ格好よかったのになぁ」
不意に、オートロックの配線を断ち切った時の感触が、私の手に蘇った。私の支配下に下りた電子回路。沸き上がるような興奮。
「あの時はあの時、今は今だよ」
「じゃあ、もうちょっとだけ一緒に歩こう」
さすがに、その言葉まで否定する気にはならなかった。私は歩き出したほのかの後ろを、ゆっくりと追っていった。
横の国道を、ダンプカーが猛スピードで駆け抜けていく。そのテールランプが闇の中に消えていくのを見送りながら、ほのかは静かに言葉を紡いだ。
「ねぇ、おじさん。なんでおじさんは、大学の先生になろうと思ったの?」
突然の質問に、私は一瞬考え込んだ。
「最初から大学に勤めようと思っていたわけじゃないんだ。ただ、子供の時から電気が好きだったから」
「電気かぁ。電気の何が面白いの?」
私はまたしても考え込んだ。私は、一体電気の何に魅かれているのだろう。
「子供の時、エジソンの伝記を読んだんだ。彼は純粋な興味だけで、世界で初めて電球を作った。電子を自由に操って、人々に夜でも消えない光を与えてあげたんだ」
子供の時に読んだ世界名作全集の表紙が、頭の中をよぎった。今でもそれは、私の書斎の一番奥に大切にしまってある。
「それで、電気に興味をもったんだと思う。電子を私の支配下に置いて、ありとあらゆるものを作ってみたいって思ったんだよ、きっと」
「それで、結局大学の先生になったの?」
「気付いたら、そうなっていた」
「すごいね」
私は深い溜め息をついた。大学からも邪魔にされている老いぼれ教授が、すでに自立している女性の称賛を浴びるのは面はゆい。
「すごくなんかないよ。私は、時代遅れの科学者なんだ。この時代は、特許を取れるような研究をしなくちゃいけない。でも私は、私の我がままで未だに基礎研究を貫いている」
ほのかがチラリと私を見た。
「よくわかんないけど、結局おじさんは、やりたいことをやってるワケだよね。すごいじゃん、それって」
私は言葉を失った。そんな考え方もあるのか、となぜだか心が軽くなった。
「あたしね、子供の頃、いろんなものになりたかったんだ。アナウンサーとか、映画作ったりとか、花屋さんとかスチュワーデスとか」
ほのかの言葉に、私はゆっくりと視線を上げた。ほのかの華奢な背中が夜空を振り仰いでいた。天から星が落ちてくる。
「でも、あたしバカだから勉強嫌いだし。高校中退しちゃったから、スチュワーデスとアナウンサーの道はハイ、サヨナラってね」
右手を軽く振り下ろし、ほのかは言葉を続けた。
「んで、東京出てきて美容師の専門学校行って、今の店に勤めたんだ。仕事はキビしいけど、お店は楽しいから、今は頑張ってる。でもホントはね、このままでいいのかな、とも思ってんだ。他に自分に向いてることがあるんじゃないか、って。もしそうだったら、苦労して美容師になっても仕方ないじゃん」
私は肯定することができなかった。同じような事を言っている学生達の姿を、私は今までに何度も見てきたからである。
「っていうより、ホントは、努力してもモノにならなかった時のための言い訳なのかもね」
ほのかは空を仰いだまま、苦笑を浮かべた。それは、ひどく大人びた笑いだった。
「一つの道を選ぶのって、怖いよね」
数台のバイクが、国道を駆け抜けていく。排気音が、真夜中の静寂を掻き回した。
「おじさんは、別のことしたいとは思わなかったの?」
「私は、電気以外のことはわからない。不器用な人間なんだよ」
「おじさんの方が器用に見えるなぁ」
何と答えていいのやら。私は照れ隠しに頭を掻いた。
「でも、私は石頭だから」
「普通、そんなコト自分で言う?」
「いや、学生や他の教授に、そう呼ばれてるんだ。頭の堅い石丸教授。略して石頭」
ほのかがキョトンと私を見る。それから一気に表情を緩めた。明るい笑い声が、暗い夜空の下に弾け飛ぶ。
「それいい、サイコー! 考えた人に座布団五枚」
なんで座布団が出てくるのだろう、と一瞬考え、それがテレビ番組のパロディなのだと気がついた。ようやくこの子の言葉の中で、私が理解できるものがあった。
「いいじゃん、石頭。ちょっとやそっとじゃ壊れなさそうだよ。人間、頑丈が一番だって」
やはり、この子の言葉には説得力がある。石頭でよかったと、私は生まれて初めて心の底から思った。
「おじさん、手つなごう」
前触れもなく、ほのかは私へと手を差し出した。白くて小さい陶器のような手が、私の目の前でユラユラと揺れている。
その手は、すでに家庭を持って独立している一人息子の和志が、赤ん坊の頃ダッコをねだった時の動きに似ていた。
「ほら。おじさんの手、よこして」
ダランと力なく垂れていた私の腕を掬い取り、ほのかは強引に私の手を握り締めた。滑らかで柔らかい指が、私の節くれた手に絡みつく。少しだけ鼓動が速くなった。
そのまま、私たちは夜の街を歩き始めた。握りあった手をブラブラと大きく前後に揺さぶる。歌でも歌いそうな勢いだった。
「あたしの実家、鹿児島なんだ」
ほのかの話は、いつも飛躍する。しかしそれが、ちっとも不快ではなかった。
「おかしいよね。最近よく、お父さんとお母さんのこと思い出すの。やっぱ、男と別れたのがこたえてるのかな」
私の胸が、一瞬チクリと痛んだ。娘を持つ父親の心境は、こんな感じなのだろうか。
「親ってやっぱスゴいよね。お父さんにはムカつくこと言われても、腹は立ったけど傷ついたりはしなかったもん。でも、男はあたしの傷つくことばっかり言う。一緒にいても、エッチしてても、やっぱどうしてもお互い自分の方が大切なんだよね」
ほのかの言葉を聞きながら、私の頭の中に、妻の良子の顔が浮かんだ。良子の言葉に、私は今まで傷ついたことがあっただろうか。
「お父さんと最後に手をつないだのって、いつだったんだろ」
ほのかの手に力がこもる。無意識のうちに、私も強く握り返していた。
「いいかい。磁石にはS極とN極という二つの極がある」
「勉強キライ」
私はめげずに言葉を続けた。
「磁石はどんなに小さく切っても、必ず両極ができ上がる。同じ極同士は反発しあう。でも、違う極同士は強く引きつけ合う。人間も、そうなんじゃないかな」
「そう、って?」
「いつか、君にもきっと見つかるよ」
ほのかが私の顔を覗き込む。大きなキャッツアイが、真っ直ぐに私を見つめていた。
「おじさん、例えがヘタ」
「ごめん」
「ううん、ありがと」
薄く唇を綻ばせた後、ほのかは不意に私の手を離した。温もりを失った私の手が、宙に跳ねる。ちょうど国道を通りかかった一台の空車のタクシーを、彼女は素早く捕まえた。
「ここでいいよ。タクシーで帰るね」
慌てて私は財布を広げた。なかなか一万円札が見つからない。ここで素早く万札でも差し出せば、とても格好良いのだろうに、私は最後まで冴えないオヤジのままだった。
「何やってんの?」
「いや、タクシー代を……」
「いらないよ。たかりじゃないもん。おごってもらうのは、ラーメンまでって決めてる」
軽いステップでタクシーに駆け寄り、開いた扉から車内へ身体を滑り込ませる。扉の隙間から、ヒョコリと小さな顔が飛び出した。
「あたし、もうちょっと美容師で頑張ってみるね」
「それがいいよ」
「おじさんも、頑張んなよ」
バタンと鈍い音を立てて、タクシーの扉が閉まる。黄色い車体が夜の闇の中に消えるまで、ほのかはずっと私に手を振り続けていた。
家に着いたのは、午前三時半過ぎだった。こんな時間に帰ったことなど、私の人生で数えるほどしかない。
夜の静寂と暗闇に支配された住宅街で、我が家にだけ煌々と灯が点いていた。
門灯の眩しい輝きに目を細めながら玄関の扉を開く。途端に、慌ただしい足音と共に、寝巻き姿の妻の良子が駆け寄って来た。
「どうしたんですか、お父さん!」
深いしわが刻まれた良子の目の下には、黒い隈が浮き上がっている。何時になっても帰ってこない夫を案じて、おそらく一睡もしていないのだろう。
「ずいぶん前に、鳥越さんからお電話があったんですよ。かなりお酒を飲んでいたようだけど大丈夫ですか、って心配してらしたわ」
パーティーで私の元を離れる時に見せた、鳥越のすまなそうな顔が頭に浮かぶ。
老いぼれた石頭のことなど気にせずに、自分の成功だけ見つめていればいいものを。彼もまた、不器用な人間なのではないかと思ったら、すこし目頭が熱くなった。
「こんな時間まで一体何をしてたんですか?」
「ちょっと、電気の修理を頼まれていて」
私の言葉に、良子は小さく目を見開いた。しばらく私の顔を眺めやり、やがて諦めたように深い溜め息を吐き出した。
「本当に、電気バカなんだから」
大学の事務局員に厳格だと言われるよりも、妻に電気バカと言われるほうが、数万倍も嬉しいのはなぜだろう。頼りない良子の肩が、無性に愛おしかった。
「明日、箱根でも行かないか?」
良子は、何を言われたか理解できない、とでもいうように、パチパチと瞬きを返した。
「何言ってんですか、急に?」
「いままでお前と旅行に行ったことなどなかったからな」
「パーティーで何かあったんですか?」
訝しげな良子の視線に、私は苦笑を浮かべた。自分のせいとはいえ、良子は面白いほど私の言葉を本気にしてくれない。
私は静かに良子へと手を伸ばすと、血管の浮き上がった妻の手をギュッと強く握り締めた。カサついた肌が、私の手の平を押し返す。私とともに生きる道を選んだ女の手は、力強く、暖かかった。
良子は、私の顔と、私に握り締められた自分の手を何度も交互に眺めやり、困ったように眉を寄せた。頬が、少しだけ赤く染まっているように思うのは、私の気のせいだろうか。
「変ですよ、本当に」
小さくそう呟いて、良子は私の手をギュッと強く握り返した。
「箱根に行くんだったら、御殿場のアウトレットにも行ってみたいんですが」
私は、小じわの寄った良子の目を覗き込んだ。なぜ今晩は、理解できない言葉ばかりに出会うのだろう。
「青とレッド?」
良子は溜め息交じりに肩を落とした。
「年中バーゲンをやってるデパートのような場所ですよ。世界各国の洋服や靴や鞄が売っていて、いま大人気なんです」
「お前、洋服なんかに興味があるのか?」
「そりゃあ、私だって女ですもの。どんな年でも、おしゃれには興味がありますよ」
私は、不敵な微笑みを浮かべる良子の顔を見つめた。その顔は、私の知らない女の表情を浮かべている。知らなかった。私の妻は、美術館よりも買い物をしたいと願っている。
「わかった、行ってみよう」
大きく頷きを返す私の顔を、良子はもう一度不思議そうに眺めやった。
「本当に、何があったんですか?」
それは言えない。今日一日の出来事は、一生私だけの胸の奥にしまっておくのだ。
背広のポケットに入っている一枚の小さな名刺の存在を思い出した。いつかこの名刺を、良子に手渡してみよう。きっと、今と同じように、驚いた表情を浮かべるのだろう。
私は含み笑いを浮かべて、良子の手をさらに強く握り締めた。良子も薄い笑みを返してから、フワァと大きなあくびを零す。
「そうと決まれば、早く寝ないと」
良子の言葉に私は気がついた。そう言えば、今は深夜の四時近く。これから一体何時間眠れるのだろうか、と青ざめたが、たまには寝不足もいいのかもしれないと思い直した。
考えてみると、寝不足など学生時代の卒論以来かもしれない。
「さあ、寝ましょう、あなた」
握り締めた手を引っ張って、良子は私を寝室へと誘導した。お父さん以外の呼び名で呼ばれたのは、何年ぶりだろう。
きれいに折り畳まれた良子の寝巻きの襟元を見るとはなしに見つめながら、私もまた大きなあくびを漏らした。
今日は久しぶりに、夢も見ないで眠れそうだ。