穴掘ってブギ

金子裕美

 私は呼吸しない。私の周りには酸素がない。だって私は紙に書かれた絵。白い紙面に描画された線の集合体。無限の形態を持つ線が幾つも交わり、平面の上で膨らみを形作った時、私の姿はほっこりと現れる。美しく。
 なんてね。
 授業はまだ終わらない。私は頬杖をつきながら、ノートの端に少年の姿を描き続けていた。昨日思い付いたストーリーの主人公だ。
 美しい姫、信頼できる力強い仲間と繰り広げる数々の冒険。生き別れた弟との劇的な出会い。自分の両親を含めた村人全員を殺した魔族に復讐を果たすため、幻の龍を求めた少年らの苦難の旅路が今始まる。主人公が身に付けているのは代々村に伝わっていた空飛ぶマントと速く走れる靴。ん? いくら歩いても疲れない、なんて機能も付けたほうがいいかな。マントは一振りすれば大嵐を起こすこともできる、てのもいいかな。彼の瞳は青。そして金髪。これは絶対。強いけれどいつも哀しげな瞳、憂いを帯びた唇。それから、えっと……
 五時限目終了のチャイムが鳴った。やる気のない日直の「きりーつ」の声に促され、私も立ち上がった。目は少年に釘付けだ。ほんの少しの間も離れたくなかった。
 仲間は何人にしようかな。まずはこの少年に匹敵するくらいの美形が一人でしょ。あとは、力持ちと子供? うーん、なんかつまんない。あ、男か女か分からない奴ってどうかな。あ! それをお姫様にしちゃえばいいんだ! ん? でもなんで姫が外にふらふら出てるんだ?
「乃際さん」
 ぎくりとノートを腕で覆った。見上げると、机のそばに中村百合が立っていた。いつもくっついている遠藤正美と早川智子ももちろん一緒だ。私はずり落ちた眼鏡をかけ直し、そっとノートを閉じようとした。
「何描いてるのお?」
 けれどそれより早く、中村百合がノートを奪い取った。あ、と声が喉の奥で震えた。
「んやっ、上手!」
 百合を真ん中にノートを覗き込んだ三人が、口々に喋り始めた。
「ねえねえこれ、誰? なんかの漫画?」
「うーん……あ、ほら夕方からやってる、なんだっけ、なんかアニメのお」
「知ってる! なんかロボ出てくるんでしょ? ロボ! いつ? 金曜?」
「ロボぉ? 何それ?」
 ばかじゃねえのお前ら。それは七時からやってる『未来獣士ファイティング』だろ。
「ね、そうだよね、乃際さん! ねー?」
 百合の口調がべたべたと痛い。私はなんの反論もできずに、うん、と頷くのが精一杯だった。
「すごい! 百合、乃際さんと話が合ってんじゃーん!」
 強く掴まれたノートは折れていた。私の少年も折れていた。
「乃際さんてホント漫画描くのうまいよねー。将来さ、やっぱ漫画家になるのー?」
 三人は満足したのか私を解放してくれた。ノートを机の上に放ると、連れ立ってトイレへ行った。
 本当にばかだよな、お前ら。私はくっきりと折れ目のついたノートの表紙を見下ろしていた。
 百万回は繰り返したであろうあの台詞。
「将来漫画家になるのー?」
 何度聞けば気が済むんだよ。大体将来ってなんだよ。明日かよ。それとも十年後かよ。中二の私に、そんなことが分かるかよ。
 六時限目開始のチャイムがなるまで、私は顔を上げられなかった。やっぱり私は、絵だ。ぼんやり思った。 息ができない。息ができない。息ができない。

 制服って、どんなブスが着てもなんとなく許される。だからこのセーラー服も嫌いじゃない。私は白いスカーフを結び直した。スカーフの端がほつれて、一本長い糸がふらふらしていた。
 ほとんど一人でやっていた階段掃除を終え、私はやっと帰路につく時だった。手が痒い。ただでさえ皮膚が弱いのに、あかぎれが治らないままの手でモップを絞るものだから、いつも荒れっぱなしだ。ささくれた指先を見た。そして百合の滑らかな手を思い出した。
 私以外の人間は、どうしてみんなきれいなのだろう。百合だけじゃなく、男子ですら、みんなきれいな指をしている。それだけじゃない。みんないつもいい匂いがする。シャンプーの匂い? それともまさか香水? 私だって毎日毎日シャンプーはしている。ちゃんと体だって洗ってる。それなのに、みんなのようにいい匂いがしない。私はどこかおかしいのだろうか。
 私みたいな人間のことを、不幸というのだろうか。
 いいや。中学校指定のコートを羽織った。それより、話の続き考えよう。お姫様はどうして男みたいな格好で森の中にいたのか。
 机の横にかけてある鞄を取ろうとした。けれど手は鞄には触れずに、宙を一掻きしただけだった。えっ?
 鞄が、ない。
 驚きが胸の中で、ぽかんと間抜けな音をたてた。嘘でしょ。もう一掻き。ああ、でも本当。次になぜかワクワクしてくる。
 最悪。泣ける。アホみたいにドラマチック。
 その時教室の外でゲラゲラ笑う声が聞こえてきた。ああやっぱり。あいつらだ。
 教室の外に出た。待ち構えていた三人の視線が私に集中する。こいつらは石だ。私は自分に言い聞かせた。
 横を通り過ぎた。自分の残り香が奴らに届かないよう、できるだけ遠く離れて。噴火寸前の火口がやっと背後に遠くなった時、一斉に奴らは笑い出した。
 笑い声はいつまでも後頭部にこびりついていた。私はフケを払うように、コートの襟首のあたりを二、三回叩いた。

 以前もやられた。哀れな鞄は、多分学校の裏庭だ。私は暗くなりかけた下駄箱を手ぶらで出て、正門とは反対の裏庭へ向かった。
 コの字型の中学校には陸上用のトラックが真ん中にある大きい校庭と、各クラスの花壇がある中庭と、校舎の後ろに暗くたたずむ裏庭とがある。裏庭は緩やかな小山のようになっていて、背の高い木々が何本も立っていた。紙類を燃やす焼却炉しかない上に、重なった木々の影のせいで昼間でも薄暗い。裏庭を囲うフェンスからは、この町が眼下に見渡せる。校舎は急な坂道の途中に建っているので、フェンスの下の石塀は崖のごとく垂直に見えていた。
 さて、と私は人気のない木々の暗がりに足を踏み入れた。この裏庭だけ夕方がない。数メートル離れた校舎の窓にも、生徒が通り過ぎる気配はなかった。もうすぐ期末テストのため、部活動はお休みなのだ。
 とりあえずきょろきょろと見回して、ため息をついた。暗くてよく分からない。土のほんのりと湿気た匂いがまとわりつく。寒さにぶるっとコートの前をかき寄せてから、ぎくりとした。本当に、鞄はここだろうか。
 以前鞄を隠されたのは六月だった。親切心を出したほかの女子生徒がこの場所をそっと教えてくれたのだ。だからまだ明るいうちに鞄を見つけ、帰ることができた。でも。今日もここだとは限らない。あいつらはそんなに親切な奴らだろうか?
 ちょっと早足で木と木の間を歩いた。溶けた霜のせいでぬかるんだ泥にずるりと足をとられた。転びそうになって、あわてて身をよじる。後ろの木に背中からぶつかった。
 分からない。投げやりなワクワクが消滅していく。どうしよう。どうやってこの暗がりの中、探せばいいのだ。
 ざこっ
 その時、背後で音がした。突然降ってきた音に、私は飛び上がった。
 ざこっ ざこっ ざこっ
 音は暗がりの中から続く。どうやら傾斜面の上の、奥まったほうから聞こえてくる。私は木にぴったりと寄り添いながら、恐る恐る音のほうを見た。
 暗がりの中に、白っぽい人影が見えた。タイトをはいている。女だ。必死に眼鏡を目に押しあてて凝視した。やがてぼんやりとした輪郭がなんとなく焦点を結び始める。私は驚いた。人影は音楽の橘先生だったのだ。先生がシャベルを手に土を掘っているのだ。
 ざこっ ざこっ ざこっ
 顔も上げずに掘っている。黒いパンプスを履いている足元が、すでに土に溶けているようにも見えた。その姿に引かれるように、私は小山の斜面を上った。
「あの」
 声がざこ、を遮った。でも先生に驚く様子はなかった。やはり顔を上げずに掘り続けている。
「何をしているんですか?」
 ちらりと上目遣いに先生が私を見た。眼鏡と白目が闇の中で浮き上がって見えた。
「お前こそ」
 やっと応えた彼女の声は微妙に息切れしていた。は。私は立ち尽くした。
「鞄、探してんだろ」
 言葉よりも、彼女の口調が私を混乱させた。あれ? こんな話し方する先生だったっけ?
 がっとシャベルを土に突き立てて、先生がちっ、と舌打ちした。
「たまんねーな、ちくしょう。やってらんねえぜ。汗もかいちまったしよ」
 え? え? え? 私はますます何も言えなくなる。
 するとやっと闇の中で体を起こした先生が、私を真正面から見た。顔は橘京子先生だった。間違いない。でも――
 私の知っている音楽の橘先生は、とにかく大人しい。饒舌な印象はまるでない。それでも発声指導の時にたまに聞く声は、のびやかな高い声をしていた。スレンダーな体にいつも地味なスーツを生真面目に着こなしているが、案外可愛い顔をしていると思う。多分眼鏡を取れば、もっと目立つ容姿になるのではなかろうか。
「鞄だろ。お前の。あれ」
 そう言うと彼女は顎をしゃくった。その方向を見ると、可哀相な私の鞄が木の根元にひっそりと落ちていた。ああ、と私は駆け寄った。
「私と入れ違いに、中村百合とかが置いてった」
 ちょっとお。思わず口を尖らせた。見つけたんなら知らせてくれてもいいんじゃない?
「大体よお、お前も情けねえよなあ? やられっぱなしじゃねえか」
 が。私の抗議より先に、先生が口を開いた。またも自分の言葉が引っ込んでいく。
「苛々するんだよな。お前見てると」
 瞬時に、驚きは習慣へと変わった。なんだ。またか。またバカにされたんだ。私はとっさに目を伏せ、鞄を拾い上げた。ぽんぽんと泥を払うと、この場を立ち去ろうとした。
「疲れるだろ。そうやって無表情なふりしてると」
 そんな私の背中を先生の言葉が引き止めた。彼女はまたシャベルで掘り始めた。
「傷付いてないよ、てふり。平気だよ、てふり。だけどな、誰もそういうふうには思ってねえぞ。みんなお前がめちゃくちゃ傷付いて弱ってんの知ってんだ。だけどそうやって強がるから、よけい面白がるんだ」
 シャベルの音にかき消されて聞こえないよ。全然、聞こえてなんかないよ。
「先生こそ、何してるんですか?」
 珍しく声を張り上げてみた。けれど先生の土を掘る音は途絶えない。
「お前、自分嫌いか?」
 だから、聞こえないって!
「だったら穴を掘るといいぞ」
 何言ってんのか全然聞こえない!
「でな、自分を少しずつ削って埋めるんだ。髪の毛むしったり、爪を切ったり、指の皮噛み切ったりとかしてな。痛いくらいがいいかもな。ちょっとでも削れば、細胞分裂が激しくなって、自分が生まれ変わるぞ」
 もう、全然分からない!
「で、穴に向かって叫べ! 今の私は、私じゃなーい! てな」
 斜面を下りようとした。すると再び、先生の声が飛んできた。
「お前楽しいことしたくねえか?」
 思わず振り向いた。楽しい、という言葉は、多分今のこの場に、世界で一番そぐわない。
「楽しい?」
「例えば、あの仲良し三人組をぶち壊してやるとか」
 ぎょっと冷たい空気を飲み込んだ。けれど胸の中心はなぜかばくばくと熱い。
「協力してやってもいいぜ」
 先生はやっぱり穴を掘っている。
「協力?」
「そのかわり」
 いきなり先生が顔をあげた。食われそうに思って、逃げ腰になった。
「お前も、協力して?」
 真剣な顔。やけに汚い言葉遣いの、穴を掘ってる音楽教師が真剣な顔してる。何も言えない。
 今度こそくるりと背を向けた。足早に斜面を下ると、またぬかるみに足を取られそうになる。
「いつでもいいぞー!」
 追いかけてくる。きれいな声のままの、汚い言葉が追いかけてくる。
 先生の声が背後で響き渡った。
「お前の声が必要なんだ!」

 古びた団地はいくら塗装し直してもダメ。無駄な厚化粧。無理矢理外見だけ白くしているその光景は、過ぎた時間は二度と戻らないのだと痛感させてくれる眺めだ。
 私は錆び付いているポストの中を確認し、団地の階段をのぼった。五階につくまでに、B棟のシンボルである黄色い扉を何回も何回も目にする。どの扉もやはり端々が錆び付いていて、茶色く変色していた。最上階の同じく錆びた扉の一枚の前に立つと、私は鍵を開け、中に入った。
 家には誰もいなかった。眼鏡がうっすらと曇る。母の作り置きしてくれた夕飯がまだ熱を保っているからだ。今日の母のパートは夜シフトだ。残業の多い父も帰ってくるのは一一時過ぎ。月曜は心置きなく、テレビも漫画も堪能できる日だ。
 キッチンと居間の灯りをつけた。ベランダには、まだ乾いていないのであろうタオルが数枚干しっぱなしだった。天気悪かったもんな。コートを脱ぎ、ベランダに出た。とたんに全身を襲う空気の冷たさに震え上がる。タオルの乾き具合を確かめると、やはりまだ生乾きだった。ちえ。急いで中に引っ込もうとして、私は足元の小さい鉢に目を止めた。
 大切にするわけでもないのに、母は時々鉢植えの花やら観葉植物やらを買ってくる。なんとなく水をやっているうちに枯れるものもあれば、ところどころを変色させつつも、生き残っているものもある。ちょっと人に聞いて栽培方法を知れば育つのだろうが、母はどこか些細な博打をしているところがある。死ぬか、生きるか。
 緑色のスコップを、花も枯れてすっかり乾燥した鉢の土に突き立ててみた。小さく掘り起こしてみる。中の土は表面のように白っぽくなく、まだ黒い色を保っていた。掘り返してみた。乾いていたものと湿っていたものがほどよく混ざる。私は少し満足した。そして緩やかに形作られた穴を見下ろした。
「バカヤロー」
 つぶやいてみた。 自分の声が土に染み込んでいった。

 はっと気付いた時には手遅れだった。
『百合と不愉快な仲間たち』は私の手から取り上げたノートを、高々と天井に向けて掲げた。
「んやっ、何これえ、お話?」
 百合の声が一段と高い。私は立ち上がった。
 ノートには、昨夜考えたアイディアのすべてが書き記してあった。主人公の仲間の容姿特徴、魔族を倒す攻撃アイテム、旅路の行く手に次々現れる街や森や海の光景――
「ねえ、この人とこの人がくっつくのお?」
 目の前にノートを広げると、百合は主人公の少年と、仲間の一人を指で結んだ。
「百合ぃ、この子男の子だよ」
「え、嘘? 女の子じゃないの?」
「やだよく見てよぉ!」
 三人は私のノートを、互いの顔がくっつきそうな勢いで覗き込んだ。
「やだぁ、正美こそちゃんと見てよぉ。だってここに、『恋』て書いてあるもーん」
 痛い。言葉に表してしまった自分を呪った。
「ほらあ、この子とこの子、線で結んであるでしょ? で、恋って書いてあるじゃん!」
「え、じゃあホモ? おホモだちー?」
 何も言えなかった。それは本当は女の子なんだよ。目に見えるものと、真実は違うんだ。
「乃際さんてえ、案外やらしくない?」
 笑い声が教室中に広がる。私は目を伏せて、表情を消した。
 こうすると私の中で私がしぼむ。人から見える自分の中で、本当の私はぎゅうっと手足を縮こめて、ふわふわと浮かぶのだ。笑い声が少しだけ遠ざかった。
 私の中で、私の姿はいつもぼやけている。私の心にかける眼鏡はどこにもない。

 音楽室から楽譜と教科書一式を持って現れた橘先生は、私の姿に驚きもしなかった。昼休み、二人は人気の途絶えてしまった音楽室の前で向かい合った。
「飯は」
 先生の言葉に首を振った。食べたくなかった。
「そっか。まあ少しは痩せていいかもな」
 とっさに顔を伏せた。ところが先生は先生のくせに、生徒を気遣う様子を一つも見せず、さらに言葉を継ぐ。
「あのな、乃際カスミ。一つ忠告させてもらうけど、デブはデブでも、陽気なのと陰気なのじゃ大違いだぞ。どうせ太ってんなら自分の脂肪を誇れ」
 なんだよお、こいつ。私はますます顔を上げられなくなる。一番言われたくないことをずばずばと……すると先生の声が、少しだけ柔らかくなった。
「なんてな。嘘だよ。お前なんか全然許容範囲。ちょっと平均より三、四キロ多いだけ。中学の頃なんて特に太りやすいからな」
 ちらっと先生を見た。先生はふっと笑った。
「まあいいや入れよ。やる気出たんだろ?」
 自分が出てきたばかりの音楽室の入口を顎先で示した。私は頷くことをためらった。けれど先生はさっさと音楽室へ戻っていく。
「入口、閉めろお」
 恐る恐る中に踏み入れたとたん、先生の声が飛んできた。言われるままにあわてて扉を閉めた。
 横に長い構造になっている音楽室は、ずらりと並んだ机と椅子の前に、五線譜が印字されている黒板と小さい舞台、そしてピアノがあった。先生は一番前の机の上に自分の荷物を下ろすと、隣の机に腰掛けた。
「お前は来ると思ったよ」
 それからこう言った。
「昨日中村百合が置いてった鞄を見た時、こりゃ来るな、て思った。とうとう、私とお前の計画が動き出すなって」
 返事ができない。計画ってなんだ?
「簡単だよ。電話をかけてくれればいいだけ。で、この台詞を言ってくれればいいだけ」
 そう言うと、私に一枚の紙切れを渡した。用意していたというのか。私がここに来るって予測していたというのか? 二つに折り畳まれていた紙を恐る恐る開いた。紙には、ワープロで打たれた文字が並んでいた。
『あ、私。なんか、やっぱり電話しちゃった。ごめんね。今さらなのに。もしかしたら、あなたには私がすごく元気に見えているかもしれないけど……』
 唖然として先生を見た。これは一体なんだ? 先生も私をちらりと見ると、教科書を解説するみたいに冷静に喋り出した。
「今の時期なら、そうだな、必ず夜の八時から九時の間に電話しろ。電話は留守電になってるから、これを吹き込めばいいだけ。万が一誰か出てきたら即座に切れ。いいな? あ、非通知する必要はないから」
 応えようがない。これって音楽室でする話なのだろうか?
「よし。練習だ」
 先生が私のほうに向き直った。私はぎょっと息を飲んだ。
「練習?」
「そうだよ。この台詞、声が似てなきゃどうしようもないんだ」
 だ、誰に? やっぱりこの人やばい。どうしよう、今からでも遅くない、ここを逃げ出そうか……
「お前の声、前から思ってたんだ。似てるなあって。特に高い音がな。多分ちょっと練習すればそっくりになる」
 口をぱくぱくさせて喘いだ。
「あの」
「何」
「あの、や、やっぱり……」
 紙を先生に押し付けた。机につまづきそうになりながら、外へ出ようとした。
「今のお前が教室に戻って、それでなんだっつうんだ?」
 また先生の声が追いかけてきた。無視しろ、無視!
「教室、地獄だろ」
 足が止まった。教室と、地獄。かけ離れているように聞こえる言葉が、奇妙にしっとりと符合する。
「今より少し人生を楽しんで何が悪い。誰がお前を責める? 今のままでお前は満足か?」
 思わず先生を振り返った。
「じゃあこの台詞を言えば、簡単に人生が楽しくなるわけ? このくそったれな、生ゴミ寸前の人生が?」
 にやりと橘先生が笑った。
「やっぱな。口悪いなー。お前みたいに内へ内へと攻撃本能をとじ込めてしまうタイプは、いざ解放されると、結構凶暴なんだよな」
 凶暴? 私が? 呆れ返って先生を見た。そんなわけないじゃん。毎日毎日バカにされ続けている私が凶暴なんてさ!
 でも。もう一度先生の手にある紙を見た。でも、今からでも生まれ変われるだろうか。どうせ捨てられるだけの生ゴミならば、凶暴な生ゴミになったほうがよくないか? ちくしょーって三角コーナーから、排水口から、ゴミ集積所から飛び出してくるような、凶暴生ゴミ。
 先生の方に再び近付いた。緊張した体から、体脂肪がちょっとだけ減った気がした。

 握りしめた紙片はもう汗でへなへなだった。私は自分の部屋のベッドの上で、夜の八時を迎えていた。母はお風呂に入ろうとしている。やるなら、今だ。
 震える手で電話の子機のボタンをプッシュした。番号は携帯ではなく、普通の家庭電話だった。市外だ。ほんの束の間の沈黙ののちに、がち、と回線がつながる音が聞こえた。ぷるるん、とどこか脳天気に呼び出し音が鳴る。
 電話が取られた。心臓が皮膚を突き破る寸前にまで高鳴る。叫び出しそうになるのをこらえながら、受話器の向こうが留守電であることを確認した。応答メッセージは男性の声をしていた。
『はい。タカシマです。只今留守にしております――』
 タカシマ? しかし今の私は任務を遂行することしか頭にない。行け! 散々橘先生から練習させられた、この可愛い子ちゃん風の台詞を言うのだ!
「あ、私! なんか、やっぱり電話しちゃったぁ――」

 ざこっ ざこっ ざこっ
 先生は暗がりの中で穴を掘っている。私は座って、穴が深くなっていくのを見ている。
「テストの勉強は平気なのか」
 たまには先生らしいことも言うんだ。私は彼女を見上げた。
「これからやります」
髪の毛を一本抜いた。穴に落としてみた。手から離れた瞬間、もう私の一部は行方不明。
「いつもここを掘ってるんですか?」土と暗がりに私の声が溶けていく。
「まさか。半月くらい前からだ」
「放課後ずっとやってるんですか」
「そんなわけあるか。そこまで暇じゃない。せいぜい十五分くらいしかできないよ。だから全然進まない」
 なんのため? と聞こうとしてやめた。ものすごく恐ろしいことでも、ものすごくつまらないことでも、なぜかどっちも困る気がする。
「昨日の電話だけど」
突然先生が体を起こした。私は体を強張らせた。
「サンキュー。すごい効果てきめん」
 先生はちょっと笑ったように見えた。
「だからな、お前のために、スペシャルプロジェクトを発動させるから」
漫画の台詞みたいだ。こんな話し方をする大人の女の人に、私は初めて出会った。
「お前の声が似てるって気付いてから、三、四ヶ月くらいかけて完成させた。このプロジェクト」
 ぽかんと喋り続ける先生を見上げた。
「今、五時だろ? 五時半から七時半くらいまでこれから町内警備なんだ。本当は明日、東町担当だったんだけど、お前が昨日例の電話をしてくれたから、急いで吉田先生にお願いして今日にしてもらった。明日用事ができちゃって、てな。だから吉田先生の代わりに、今夜私は西町担当」
 何がなんだかさっぱりだ。
「西町のゲームセンターに、遠藤正美と早川智子が入りびたってんだよ」
 はっとした。中村百合とその他二人、の二人だ。
「何回か見回りしてて分かったんだけど、どうやら中村百合は週に何日か塾に行ってんだな。だから今日、水曜はほとんど二人だけでゲーセンにいる。そこで、指導する名目で、携帯を取り上げる」
 一体なんの話をされているのだろう? これは夕べのドラマのあらすじ?
「基本的に学校は携帯持ち込み禁止、所持禁止だから。もちろん通学路での買い食い寄り道大厳禁。今日のためにずーっと見逃してきたけど、結構あのゲーセンには出入りしてるらしいな。何回か指導されてんのに、ちっとも懲りてないみたいだし」
 暗がりが空から降りてくる。だらしなく口を開けた土穴と、黒々と混じり合う。
「で、明日返すまでに、遠藤正美の携帯のメモリーにちょっと細工する」
 は? 私の口も開きっぱなしだ。
「住所録の早川智子のメアドに、私のメアドを登録するんだ」
 橘先生の口調はやっぱり解説風だった。
「ここからがちょっと難しいんだけど、明日お前らのクラス音楽が四時限目だろ? その時に二人に携帯を返す。授業中メールとかしちゃダメよ、とか言って。でもどうせ期末前で自習だからさ、しないわけがない。ただあの三人の場合、絶対的権力を中村百合が握ってる。ここ数カ月観察してたら、いつもメールを初めにやりだすのは中村百合なんだ。だから、即効私が中村の携帯を没収」
 いつ観察してんの? ピアノ弾きながら? 五線譜の黒板に音符を書きながら?
「これであの三人はもうメールしない。そこで私が自分の携帯から、遠藤正美の携帯にメールする。でも彼女の携帯には、早川智子の名前になってる」
 これはやっぱり、なにかのあらすじだ。こんなこと、実行できるわけがない!
「こう送ってやるんだ。『やっぱり前々から言おうと思ってたんだけど、私、百合ってちょっとわがままだと思う。正美だから言えるけど。私、正美がリーダーっぽくしてくれたらいいのになって本当は思ってる。本当は話し合いとかするべきなのかな? あ、レスしないでね。百合に怒られちゃう』」
 先生がやけに可愛い声を出した。バカにされているような気もした。騙されているような気もした。けれどそのうさん臭い可愛らしさが、あらゆるものの正体なのだとも思えた。
「これで完璧」
 そう言うと、先生はぽんぽんと手を払った。シャベルをフェンスに近い木の陰に突き立てると、私を見た。
「これで、あの三人はばらばらだよ」
「……それだけで?」
 おう、と先生は笑った。でも随分と子供じみた、綻びだらけの計画のような気もするが……
「バレません?」
「明日の昼休みな、抜き打ちの所持品検査だぞ。お前も漫画本とか化粧品とか持ってくんなよ」
「持ち込みませんよ」
「だから、また遠藤正美の携帯はリターンなの。まあ万が一没収を免れたって、早川智子のメアドが私のに変わってるだけだから。気付かれないよ。また機会見てすぐに没収してやりゃいい」
「そうですかあ?」
「あのな」
 先生が真面目な顔をして私を見た。
「自分に対して悪意を持ってそんな小細工をする人間がいるって、自分じゃなかなか思えないもんだよ」
 私も先生をじっと見た。
「お前はな、社会の荒波に揉まれる前に、すでに人間関係の厳しさを骨身に叩き込まれてるんだ。お前、自分を幸運だと思ったほうがいい。お前はすでに、人生のかけ出しの部分で、生きることの苦労の大半を味わってるんだ」
 先生の眼鏡がずり下がっている。
「行け。もう暗いから気を付けて帰れ」
 全然先生らしくないのに、誰よりも先生。乱暴なのに、優しい。ガキみたいなのに、大人。
 私は素直に斜面を駆け下りた。多分先生は私の姿が消えるまで見ていてくれてる。なんとなく確信できた。
 先生ならやってくれるかも。足が少しだけ軽い。今日これから町内警備、そして携帯を手に入れて、そして明日音楽室で、そしてメールして、そしてそして最後に所持品検査でまた携帯を取り返して――
 足が止まった。所持品検査。一つのキーワードが甦る。
 所持品検査担当。風紀委員顧問。私のクラスで社会科を受け持つ……
 高島稔先生。
 
その一瞬、力を込めて丸めた足の指先がつった。はひ、と喉の奥が鳴る。唇をぎゅううっと強く結んだ。
「中村さん。もう、携帯は没収します。ちゃんと自習して」
 橘先生はそう言うと、あっさりと百合の手から携帯を取り上げた。やれやれ、という大人のふり。すごい演技派。
「はい、席の移動は許しませーん。自習にならないでしょ?」
 テスト前、音楽やら図工やら体育の時間は、大体教室での自習になる。生徒たちはそれぞれの科目の教科書やノートを広げ、自習を始める。私も一応社会科の教科書を広げた。今度の歴史の試験範囲は戦国時代。でも今は、桶狭間の戦いよりも大変な勝負が目の前で繰り広げられている。
 テストが再来週に迫っているためか、みんな素直に自習を始めた。締め切った窓の外は、冬の青空。からっからに晴れ渡っていた。
 ちらちらと教壇に座っている先生を見た。彼女は先程からうつむいたままだ。メールを打っているんだ。心臓の鼓動が激しすぎて苦しくなる。
窓際の前から二番目に座る遠藤正美を見た。今のところ変化なし。多分まだメールは届いていない。
 どうしよう。ますます呼吸が苦しくなる。今ならまだ間に合う。何もなかったことにできる。いや、でも! 私はもうやっちゃったもん。電話をかけちゃった。踏み出しちゃったんだ。自分のやっちゃったこと、もう取り消せないんだ!
 その時だ。正美がノートの下に隠していた携帯を取り出した。慣れた様子で手早く操作している。私は彼女の姿を凝視した。
 正美の顔が目に見えて固くなった。さっと携帯を隠すと、ちらりと視線を彷徨わせる。私はあわてて顔を伏せた。
 やったのか。もう一度上目遣いに正美を見た。冬の陽射しが暖かく降り注いでいる席で、彼女は身じろぎ一つせずに教科書を見下ろしている。シャープペンは一向に動かない。やったのか。そっか、やったんだ。続けて先生を見た。
 橘先生はゆっくりと、自習を続ける生徒たちの間を歩いていた。その様子に、なんの動揺も悪びれる様子も感じられない。
 全然頭に入らない歴史年表を見ながら、一人ほくそ笑んだ。漫画みたいなことが動き出した。すごい。ヒーローだ。先生は魔法の剣を携えた、ヒーローだ。
 放課後、私は生徒たちがほとんど引けたことを確認して裏庭へ行った。焼却炉に紙ゴミを運んだらしい生徒とすれ違いはしたが、やはり夜を迎える裏庭は無人だった。
 ところがいつもの斜面頂上、フェンス際の木の陰に先生はいなかった。微妙に深くなっている穴のそばに座り、しばらく待った。一〇分程待ったが来ない。とうとうあきらめて立ち上がった。そして穴を覗き込んでみた。
 穴は大して大きくない。一体この中に、何があるというのだろう? 
 やはり先生は来ない。帰ろうと斜面を下りながら、私はふと思った。
 あの穴には何かが埋まっているのだろうか。それとも先生は、何かを埋めようとしているのだろうか?

 次の日の金曜日の放課後、先生はいた。やっぱり穴を掘っている。
「どうだ? あの三人組」
 先生は私の姿を見ると言った。
「うーんと……なんかすごく変わった! てのはないんですけど、なんとなく近付いてくる回数は減りました」
「おー、そうか」
「でも仲が悪くなったようには見えませんよ」
「そりゃそうよ。お前、ガキと大人の違いどこか分かるか? ガキはみんなと一緒じゃなきゃ生きていけないの。いきなり仲間割れなんかしたら、自分が孤立するかもしれないだろ? 今間合いを計ってるんだよ」
 くふふ、と無邪気に先生が笑った。私はそんな先生をじっと見た。
 この人は、謎だ。何もかもが謎だ。
「先生」
「ん?」
「なんで先生やってんの?」
私の問いに、先生は穴を掘る手をまったく休めることもなく、即答した。
「そりゃお前、教員試験に合格したからさ。公務員だし。とりあえず安泰だろ?」
 これが人生の正しい選択なのかな。
「先生、中学生の頃何になりたかった?」
 彼女の相棒のシャベルの音がちょっと止まった。
「なんだお前、質問攻め?」
 うーん、と私は唸った。先生には本当はもっともっと色々聞きたい。
「進路の参考」
 再び先生は掘り始めた。
「私、将来ってのがよく分からなくて。いつくらいからが将来なのかなって」
「そう思ってたなー。私も」
 ふう、と先生が腰を伸ばした。柑橘系の香りがした。
「あのさ、歳ってあっという間に食うんだよ。びびるぞ。中学ん時と中身は変わってないのに、いつの間にか三十とかになってんの」
「先生三十なんだ?」
「まだだよっ。あと二ヶ月ある」
 変わんないじゃん。と言おうとして、やめた。
「先生彼氏は?」
「お前埋めるぞ、まじで」
 やりかねない。だからあまり聞けない。知り過ぎたら本当に埋められそうだ。
するとまた掘り始めた先生がぽつりとつぶやいた。
「お前こそ、恋をたくさんしておけ」
「私が?」
掘る音に紛れた「恋」という言葉。なんだか、意味を見失ってしまいそう。
「しておいて損はないぞ」
 高島先生を思い出した。歳は多分三十ちょい。独身。格好悪いというわけではないが、うーん…でもどうやら、あの電話の相手。
「こういう台詞好きじゃねえけど、でも、やっぱりお前はまだ若いんだから。大丈夫」
 目の前の穴を掘る不審な女の人を見た。けれどたまにこうやって、この人は先生ぽいことを言ってくれる。
 休んでは掘り、休んでは掘り、を繰り返す先生を見上げた。先生は恋をしていないのかな。
「先生」
「んー?」
「若いって素晴しいことなんですか?」
 先生がははは、と間の抜けた声で笑った。
「若いって素晴しい! て思っちゃったら、お前はもう若くないと思うけど?」
 あー……じゃあ私はやっぱり、まだまだ若造なんだ。 跳び越せたらいいんだ。こんなもたついた自分。早く将来ってやつに辿り着きたい。
 そしたらもっと、違う自分に会えるかもしれない。

 夜の八時六分。私は母の入浴を見計らって、再び子機を部屋に持ち込んだ。ベッドの上でしわくちゃになった紙片をじっと見た。先生が打ったワープロの文字と、手書きのタカシマの電話番号は、紙の細かい繊維に埋もれつつある。
 なんでこんなことをしているのか分からない。それでも電話番号を押していた。ぷるるんぷるるんと呼び出し音が鳴る。私は妙に冷静だった。
 応答メッセージが聞こえてきた。改めて聞いてみると、確かに、高島先生の声に違いなかった。
 ピーという発信音が聞こえた。そのとたん、私は例の可愛い子ちゃん風の声で、叫んだ。
「あ、私ぃ」
 それだけ言って切った。
 私もヒーローになれるかな、と思った。

 月曜日は波瀾の幕開けだった。
 驚いたことに、百合が一人でいるのだ。正美と智子は別の女の子グループと話している。誰もこのことに疑問を持っていないのだろうか。みんな楽しげだ。新しい調和ができあがっていたのだ。三人とも私に近付いてくることもない。自分たちのことで大忙しらしいのだ。
 百合は本を読んだり、たまに話し掛けてくる女子と話をしたりしていた。特に寂しげな顔をするわけでもない。変わらないツンと気の強そうな顔のまま、動かないのだ。こんな無表情もあったのか。私は妙に感心した。
 こりゃいいや。うきうきした。先生に早速報告だ。早く放課後にならないかなあ。
 ところが待つまでもなかった。一時限目を終え、廊下に出た私に、ものすごい勢いで近付いてくる人物がいた。橘先生だった。先生が目配せでこっちへ来い、と私を呼ぶ。私は言われるままに彼女についていった。廊下の隅の階段へ連れていかれると、いきなり手を引っ張られた。だだだっと二人で階段を駆け上る。
「お前っ」
 屋上間近の踊り場で、先生が振り返った。形相が違う。穴を掘っている時よりも鬼気迫っている。
「金曜日、勝手に電話したな?」
 息を飲んだ。なんで分かるの?
「勝手なことをしてえ!」
 語尾が怒りのためか裏返った。音楽教師なだけあって、きれいな声だった。
「いいか? 絶対によけいなことをするな。絶対だぞ。まじで、埋めるぞ」
 また眼鏡がずり下がっている。四つの目が私を睨む。私は返事も忘れて呆然としていた。そんな私を、先生はさっさと置き去りにして階段を駆け下りてしまった。
 ……なあんだよお……しばらく立ち尽くしていた。
 ちょっとは人生が楽しくなったかな、て思えたのに。そう思わせてくれたのは先生だったのに。
 階段を下りた。廊下の向こうで、ぎゃーっという男子のふざける声がした。やけに遠くに感じた。生徒たちのざわめきが、すかすかの私の体にしみた。

 七時十七分。月曜日の夜。今夜も母はスーパーで夕方からのパート。私は一人。だから子機を部屋に持ち込むこともなく、リビングにある親機の受話器を上げる。
 かき混ぜてやれ。そう思っていた。大人の言うことなんか聞いてやるもんか。びくびくして黙ってたってなんにもならない。第一、大人の言うことなんか聞いて、ためになったことなんか一個もない。橘先生だって同じ。自分こそ裏庭なんか掘り返してる変な大人のくせに。私を無理矢理冒険の旅に引きずり出したくせに。今さら偉そうに指図しないで!
 例の電話番号をかけた。今日はもう少し、なんか言ってやろう。あ、私ぃ、だけじゃなく、そうだななんだろ? 好きですとか? 嫌いですとか? 
 束の間の沈黙ののち、つながった回線の向こうから応答テープが聞こえてきた。私はあ、あ、と発声練習をした。ピーと発信音が鳴る。
「あ、私ぃ。えー……」
 何も言葉が思い浮かばない。やばい! 握りしめた紙を見た。先生が初めに私に渡した魔法のおまじない。かすれた文字を目で辿る。
「ごめんね電話しちゃったぁ……」
 先生の台詞どおりじゃん! 情けない、オリジナリティを出せ!
「え、あー……す、好きなの! いや、大嫌いなの!」
 その時だ。いきなりがちゃ、という音とともに、女の声が耳もとに響き渡った。
『ちょっとあんた! どういうこと? 誰? ミハルなの?』
 衝撃に息ができない。驚きのあまり、体の細胞の色素が全部抜けた気がした。……ホントだ。真っ白になるって、あるんだ。
 受話器を置いた。だけどうまくはまらない。まだ女とつながってるように思えて、あわててぐりぐりと本体に押し付けた。

 平穏無事すぎる火曜日。やはり三人は近付いてこない。百合は相変わらず一人のまま。
 三人が近寄らないせいか、私の周りは妙に静かになっていた。クラスのほかの生徒も、ますます私など目に入らないように見える。昼休み、私は心置きなくノートに自分の創ったお話の世界をしたためることができた。が、なかなか冒険に出られない。主人公と仲間たちは止まったままなのだ。
 その時、突然廊下で甲高い泣き声が響き渡った。生徒たちが何事かと廊下を見る。私は鉛筆を握ったまま体を固くした。
泣き声は、百合だった。
 なかなか泣き声は止まない。人だかりができ、そしてまた減り、を繰り返しているうちに近くを通ったらしい先生がやってきた。どうしたの、という素頓狂な女の人の声がする。隣のクラス担任の加藤先生だ。
 ふと見ると、正美と智子が教室の隅に寄り添うように立ち尽くしていた。私はとっさに目をそらせた。
 百合が泣きながら何かを言っていた。意味不明な声はおかしくなった小動物みたいだ。生々しさに耳をふさぎたくなった。
 私が悪いんじゃないよ。必死で鉛筆を持ち直し、冒険の続きを描こうとした。
 けれど何も、誰も動かなかった。

 誰の顔も見たくない。
 掃除後、私はそそくさとコートを羽織って鞄を掴んだ。あの後どこかに連れていかれた百合は、結局今日一日教室に戻っては来なかった。いつもツンとしていた百合が、どんな顔して泣きじゃくっていたのか、私はとうとう見ることができなかった。あとの二人の顔だって見たくなんかない。下駄箱へと急いだ。それに。それに。
 それに、どうにか橘先生の姿も見ずにすんでいた。まだ夕べの電話を知らないのだろうか。でも先生のことだ。すぐに嗅ぎ付けてやってくるに違いない。そして今度こそ、今度こそ本当に……
 外履きに指を入れた。その瞬間、ひやりとしたものが私の全身を駆け巡った。
 紙が入ってる。
 体温がすっかり飛んだ指先で靴を外に出してみた。やっぱり。白い小さい紙切れが折り畳まれて突っ込んである。
 もう一度勢いよく靴を下駄箱に突っ込んだ。けれどすぐにまた取り出した。仕方ない。逃げ切れるわけがない。
 恐る恐る紙を開いてみた。そこには手書きの文字で、こう書いてあった。『今日放課後絶対来い』 たった一言からも伝わる言葉遣いの悪さ。間違いない。橘先生だ。
 埋められる。今度こそ。どうしよう。私が行方不明になって、そんで私の死体が土の中から見つかった時、このメモがポケットに入っていれば、橘先生が犯人だと誰かが気付いてくれるかな。放課後、必死になって穴を掘っていたのはあの先生なのだと、誰かが気付いてくれるかな? 
 ……無理だな。私はすぐにあきらめた。この文面だけを見て、中学校の音楽担当の女教師だと推理できる奴はまずいるまい。
 ま、いいか。ポケットにメモを入れ、靴を履いた。そして校舎の外に出た。外はまだほんのりと明るい。
 埋められたら埋められたで、いいかも。そしたら絶対悪霊になって先生に取り憑いてやるんだ。
 それって今よりは、ずっとずっと楽しいかもしれない。

 裏庭の清掃から帰る集団と出くわした。汚いちり取りやら竹ボウキやらを振り回しながら、私の横を走り去っていく。
 ここは太陽の沈み方がやっぱり少しだけ早い。私は木々の間に踏み入り、斜面を上った。背後で下校する生徒たちの笑い声が遠く響いた。
 穴の場所にまだ先生はいなかった。そりゃそうか。学校の雑務のみならず、期末テストの科目には音楽だってあるのだ。三学年分のテストを作るのだから、案外忙しいはず。いくら先生でも、いつもいつも穴を掘っているわけにはいかないのだ。
 縁に座って穴を覗いてみた。確かに深くはなってきているが、まだまだだ。私は木の陰に隠してあるシャベルを持ち出すと、穴の真ん中に突き立ててみた。ぐりっと抉る。土の匂いがした。もっと嗅ぎたくなって、掘った。
 しばらく黙々と穴を掘った。結構大変だ。慣れていないせいか腰が重くなる。腕もだるくなる。その上すぐに汗をかく。私はコートを脱いで鞄にかけた。ちょっとは痩せていいな、と思った。ん? 私埋められたいのかな。それとも埋められたくないのかな。
 ざこっ ざこっ ざこっ
 音が小気味いい。こりゃいいや。なんかすごい自分が動いてるカンジ。生きてるカンジ。
 ざこっ ざこっ ざこっ
 なんとなく自分が一番やりやすい体勢を見つけ、私は掘り続けた。
 ざこっ ざこっ ざこっ
 リズムに乗ってきた。絶好調。楽しい。歌でも歌うか! 何がいいかな。そうだ、『未来獣士ファイティング』の新オープニングテーマ!
 きぃらめえくぅううー銀河のかぁたすみぃでええー輝くぅううー星がーきみにもぉぉー見えるかああぁああー
 がきん
 ん? 『ファイティング』のサビメロにかかろうという時だった。シャベルの先に何かが当たった。なんだなんだ? でも暗がりと溶け合い始めた土の中には何も見出すことができない。足を踏み出しかけた。その時だ。
「何歌ってんの?」
 突然声がした。私はシャベルをぎゅううっと握って飛び上がった。

 汗でぬるっと眼鏡がずり落ちた。あわててかけ直して確認すると、橘先生だった。
「聞こえてました?」
「聞こえてるよ! お前もテスト前だから悪いと思って急いで来たら、歌って掘ってんだもんな。余裕だな」
「先生、なんかここに――」
 埋まってるよ、と言おうとした。けれどそれより早く、先生が口を開いた。
「お前また夕べ電話したろ」
 声が低い。ますます暗がりが濃くなっていた。
 さあっと冷静さが頭から下りてきた。先生の顔は真剣だった。私は何も言えなかった。
「するな、て言ったのに」
 怒ってる。きっと怒ってる。
「あのな、乃際――」
「埋める?」
 思いがけなく素頓狂な声が自分の口から出た。はたと先生が私を見た。
「何?」
「埋める? 先生私を埋める?」
 しばらくじっと先生は私を見ていた。こうしている間にも、闇はどんどん深くなって、穴にしみこんでいく。
 やがてふっと視線をはずすと、先生はあほか、とつぶやいた。それからまた私を見た。
「じゃなくて。あのさ。ちゃんとお前にわけを話すから」
 この先生の顔は大人な顔? それともガキくさい顔?
「お前に電話をかけてもらった相手は高島先生。これは気付いてたろ? で、お前が似てるなって思った声の主は、体育の田畑美晴先生」
 ミハル! と叫んだ女の声が甦った。
「あの二人、以前付き合ってたんだよ」
 やけに元気な、体育の田畑先生を思い浮かべた。長い髪をいつも一つに束ね、体育会系にしてはちょっと派手めな印象の化粧をしている。二十代半ばくらい。足の速い遠藤正美あたりは可愛がられているが、運動神経の鈍い私になんかは目もくれない。元気に爽やかに、堂々とえこひいきをする先生だ。
「声、似てますか?」
「うん。飲み会の席で可愛い子ぶりっこする声と、お前の歌う時の高音が似てた」
 つまり私と田畑先生にとっては、互いに聞いたことがない声だというわけか。
「だけど別れて、で、半年前田畑先生は結婚が決まった」
 そういや、そんな噂が流れたな。
「ついでに高島先生も新しい恋人ができた」
 それはそれは。
「なんか面白くなくてよー」
 ん? 私は橘先生を見た。
「美晴も高島も散々恋の相談を持ちかけて人を付き合わせてだよ? あっさり別れて、あっさり別の人間とくっつきやがった。ふざけんなって話だよ。私の時間返せってんだ。夜中に泣いて電話したりよお。いちいち付き合ってたんだぜ? こっちは」
 ばん、と先生が穴の中に土を一蹴りした。ちょっとお、せっかく掘ったのに!
「それも高島の奴、美晴と共通の飲み友だちとくっついてやんの。世界が狭いっつーの」
 じゃあ夕べのあの女の人は……
「まさか先生。二組を別れさせようとか思ったんですか?」
 ちらりと先生が横目で私を見る。
「そういうわけじゃないけどお」
 打って変わったもごもごした口調。うわ、と私は叫んだ。そうなんだ! そういうつもりだったんだ!
「先生、鬼だ!」
「違うよ! ちょっと驚かそうかなって思っただけ。今はテストだなんだで残業が多いだろ? 高島は大体八時くらいに学校を出て、一時間くらいで家に着くから。その間に美晴そっくりのお前の声が留守電に入ってたらびびるかなーって」
「なんで携帯じゃないんですか?」
「あいつ今携帯禁止だもん。新しい彼女がすんごい嫉妬深いんだって。鼻の下べろーんて伸ばして言ってた。そんな心配しなくてもモテるかっつーの」
 この人は子供か? 本当に教師か?
「でも面白かったぜー。お前が電話した次の日。高島そわそわそわそわしちゃって。もう今にも美晴を押し倒さん勢いだった」
 けへへ、と先生が笑った。私は突っ立ってた。ところがその笑顔をすぐに消し、彼女は私を睨んだ。
「だけどよ、昨日。高島が美晴に電話しましたか? て聞いてんだよ。お前ばかだなー。まだ美晴が高島と一緒に残業している時間に電話しちゃってんだもんよ」
 はあ、なるほど。
「で、今日だよ。高島頭掻いて、しつこいいたずら電話があるみたいなんです、だとよ。まあほっぺに絆創膏貼ってたけど。あれ、絶対彼女に引っ掻かれたんだ」
 先生は穴のそばに座り込んだ。ふう、とため息を穴に向かって一つつく。
「なんかバカバカしくなっちゃってよ。だからなんだよ、て思ってさ。あの二人がまた苦難の果てによりを戻したとしてだよ? で、私の人生なんなのさ、てことだよ。お前の電話のせいでうきうきしたり落ち込んだりしてる高島見てたら、なんか奴の人生に彩りを与えてあげてる気になって。冗談じゃねーって思った」
 先生の横に座った。暗がりに浮かぶ、眼鏡が二つ。
「先生」
 応えない。どうやら本気で落ち込んでいるみたいだ。
「あ! そうだ、先生あのさ」
 励まさないといけない気がした。普通逆でしょ?
「私ね、さっき見つけたの」
 ぼんやりと、先生の眼鏡がこちらを向いた。
「穴の中、なんか埋まってるよ」
 がばと先生が立ち上がった。その勢いに私は尻餅をついた。
「まじで? 掘りあてたってこと?」
 声が大きい。さすが音楽教師。
「か、貸せ! シャベル! シャベル!」
 シャベルを手渡すと、先生は必死の形相で穴の中を先端でつつき始めた。
「すげえ! やっぱここらでビンゴだったんだあ! ここ? ここ?」
「うーん、多分右寄り」
「どっちからどう見て右だよ!」
 ざざざっとシャベルで穴をかき回すようにした。するとがち、と音がした。先生が慎重にシャベルの先端で周りの土を除ける。
「先生、何が埋まってるの?」
「昔の私」
 彼女の顔を見た。穴を見つめる目が大きくなっていた。
「タイムカプセル。三年E組が卒業の時に埋めた、タイムカプセル」
 思わず穴を見下ろした。
「先生この学校の卒業生だったの?」
「今度、年末に同窓会がある。で、その時に掘り出すんだとよ」
 シャベルの先端が、更に高いかち、という音を出した。土を除ける。赤茶けた色が見えた。先生は手を使って掘り出し始めた。もうすでにスーツの裾は真っ黒だ。彼女の手の下から、古ぼけた色が姿を現し始めた。
「何が入ってるの?」
 私も手を伸ばし、土を除けた。タイムカプセルは四角い形をしていた。
「『将来の私へ』」
「え?」
「今の、将来掘り起こした時の私への、手紙なの!」
 中学生の橘京子から、将来の橘京子へ? むーんというかけ声とともに、四角い箱を穴から引きずり出した。土がぼろぼろと落ちる。お菓子の箱だったのであろう鉄製の箱は、湿気ですっかり錆び付いていた。それでも赤いスカートをはいた女の子らしき絵がおぼろげに見えていた。
「勝手に出していいんですか?」
 興奮のせいか私の声まで上ずっている。
「いいの! だって……『橋本正義君と結婚したい』て書いてあるんだ!」
「誰それ。同級生?」
「それだけじゃねえよ! 美晴の結婚相手だ!」
 先生の声が高く響いた。私たちはいつの間にか、土の上に座り込んでいた。

「一、二年前、中学ん時の吹奏楽部だった友だちに誘われて、行ってみた合コンに橋本正義がいたの。その時頭数合わせのために、美晴も誘ってたんだ。すげえよ美晴は。高島と付き合ってた時から、ちゃんと橋本とも繋ぎとってたんだな。結婚てやつは、あのくらいしたたかじゃないとできないのかもな」
 錆び付いたタイムカプセル。横文字を使うほどの代物ではないが、古びて汚らしい感じが時間というものを体現して見える。
「取り出さないと」
 先生が蓋を開けようとした。しかしすっかり固くなっているらしく、爪ががり、と音をたてて滑った。
「なんで出すんですか?」
「だってお前恥ずかしいだろー? 冗談じゃねえよ、結婚決まってる男と結婚したい! なんて書いてあるんじゃよ」
 そんなもんだろうか。
「それに、これ無理矢理書かされたんだ」
 四苦八苦している先生の手元を見た。蓋はまだ頑固にびくともしない。
「え?」
「一人一人の自分の写真の裏に、なりたい自分、てのを書いて入れたんだ。私は無難に『お花屋さん』とかってちょっと可愛いのを書いておこうって思ったのに。あいつらがさ」
 とうとう、先生がコノヤロと箱を叩いた。変型したらよけい開かなくなっちゃうよ?
「斉藤成美と岡田祥子がさ。そばに寄ってきて言ったんだ。『橘さぁん、なんて書くの? ねえねえ橋本君と結婚したいって書きなよ! いいじゃん!』てな。私は口答えできないガキだったから。言われたとおり書いちまった」
「先生その人のこと好きだったんだ?」
「うっせ、放っとけボケ」
「え? でもその人が田畑先生と結婚すんだ?」
 ああもう、と先生が叫んだ。私はびくりとした。何に対して怒ってんだ? 信じられない。この先生が口答えできなかったって?
「そうそう」
 すると息を切らしながら先生がつぶやいた。
「遠藤正美の携帯にな、あの時ダメ押しでこうもメールしといたから」
「……なんですか」
「『サッカー部のぉ前田くん、百合よりもぉ、正美のほうが好きな気がする。でもなんか、やっぱり言い出せないよね』」
 またもぽかんと先生を見た。
「なんで二人が前田のことを好きって分かるんですか?」
「バッカ、お前らの年頃なんかな、口に出してなくたって全身で恋してまーすって叫んでんの。バレバレ。どんな恋の戦いがあるのかくらい一目瞭然」
 聞きながら、自分の中を覗いてみた。……ダメだ。自分で描いた少年の顔は浮かぶけど、それ以外の男子なんて思い付かない。
「女の友情はぁ、もろいものよぉ」 歌うような節回しで先生が言った。
「でもさー、乃際」
 それから額にかかる前髪をぴん、と指で弾き、私を見た。
「親友なんて、本当に一生に一人いるかどうかだぞ」
 先生の眼鏡はやっぱりずり下がってた。
「中学の頃なんてな、孤立するのが怖いから群れてるだけ。斉藤成美なんか、自分の結婚式の時、中学の同級生誰も呼ばなかったんだって。笑えるだろ。あんなに岡田祥子とべたべたしてたくせにさ」
「なんで知ってんですか?」
 箱を抱え込み、蓋をはずそうとしながら先生が怒鳴った。
「この前、同窓会の連絡が来た時言ってた! あいつ幹事なの!」
 ばほ、と蓋が鳴った。お、と二人で身を乗り出した。蓋が少しだけ上にずれている。私も一緒に蓋に手をかけ、力任せに押し上げてみた。
 ばかっと音をたて、箱が真横に飛んでいった。弾け飛んだ箱の中から茶色く変色した角封筒が何通も落ちた。暗がりの中で、視界が封筒だらけになる。
「すごい」
 一通を手にとった。ほとんど糊がはがれている封筒をそっと開け、中を見てみた。自分で持ってきたらしい少年のスナップ写真。そしてその裏には、彼自身が書いた手書きの一言。『車関係の仕事がしたい』。
「『橘京子』を捜せ!」
 ざざざっと封筒の山を先生が崩した。一通一通封筒に手書きされた名前を確かめては放っていく。私はぼんやりと先生の手元を見つめていた。
 いいのに。別に。なんだかどれもこれも、可愛い気がする。たとえなりたい自分になっていたって、いなくったって、とても愛おしいように思える。
「お前も捜せえー」
 先生の声が響いた。はいはい、と封筒の一通を手にとった。『渡辺和也』。違う。放って次の一通を手にした。『友永恵』。これも違う。放る。次のを手にする。しばしこの作業を黙々と繰り返した。私の手の中で、時を経た不思議な同級生たちの夢が、次から次へと入れ替わる。次第に何を見つけたいのか、誰を探しているのか、私は分からなくなってくる。私が探しているのは私? ああ、違う。先生のこと? その時。
街灯と校舎の灯りに、『橘京子』という文字がぼんやりと浮かび上がった。
「あ」
先生が、いた。
「あった?」
 当の本人がそう叫ぶと、私の手から封筒をひったくる。しっとりと湿気を含んでいる封筒の糊代部分を乱暴に開けた。
「破れちゃうよぉ」
「いいの!」
 中から写真を取り出した。私も覗き込んだ。あれ? この写真の子結構太ってない? と思ったとたん先生が色褪せたその写真を裏返した。そこには――

『バーカ』

 二人とも、しばらく無言でこの言葉を見つめていた。眼鏡がずる、と鼻先まで落ちる。
 バカ……?
「思い出した」
 やがてぽつりと先生が言った。
「そうだ。あの二人に無理矢理書かされた後、こっそり書き直したんだ。消しゴムで全部消してから……」
 もう一度先生の手の中の、先生からのメッセージを見た。十五歳の橘京子が書いた、やっぱり乱暴な言葉。今とちっとも変わってない。先生もしばし『バーカ』を眺めた後、ぶっと吹き出した。
「性格悪いと思わない? こいつ」
 こいつって、あんたのことでしょ。なぜかこっちまでおかしくなる。
「将来の私にバーカはないよねえ? なんつうか、もっとこう……」
 とうとう私も吹き出した。二人して土の上に座り込み、大笑いした。
「もっとこう、夢のある?」
「そう、それ! 書き直すんなら書き直すで夢のあること書けばいいのにさ!」
「レースクィーンとか?」
「何だそりゃ、て、あ!」
 先生が顔をキラキラさせて立ち上がった。
「書き直そう!」
「は?」
「みんなの出して、書き直しちゃおう!」
 私はその顔を見て、また笑った。
「政治家とか?」
「アイドル歌手とか?」
「俳優」
「声優」
「スタントマン」
「大学教授」
「ベンチャー企業の若社長」
「美容整形外科医」
「作家」
「プータロー」
「八百屋」
「全部ビミョー!」
 ぎゃはははと笑い転げた。夜の穴に二人の笑い声が吸い込まれていく。
 たくさん笑って、たくさん泣いて、それを全部穴に埋めたら、私は生まれ変われるだろうか。今の私の何もかも、新しくなれるだろうか。

 三人が私の目の前に立ちはだかった。どこをどう調整し直したのか知らないが、また以前のままの立ち位置で現れた。
「乃際さん、絵描いてんの?」
 百合がまず最初に口を開く。これも一緒。
「見せて見せて、んやっ、うまーい」
 次に正美。「ホント、乃際さん絵が上手いねー」
 そいでもって智子。まったく同じ。 でもきっと、三人は三人なりに、そして私は私なりに、今日は昨日と違うのだろう。
 多分明日も。明後日も。
「将来漫画家になるのー?」
 百合がとどめの一発を言った。
「うん」
 私は応えた。三人がぽかんと私を見た。
「ああ、でもまだ分からない。将来って、よく分からないから」
 夢はどこに詰まってる? 穴の中? それとも私の中?

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