追悼 笹沢左保氏

笹沢左保氏写真館

笹沢左保氏自筆『平家物語』解説文

盟友笹沢左保氏を追悼して
【10/23朝日新聞朝刊文化面より転載】

積み残した作品への無念
【10/24産経新聞夕刊より転載】

一期一会の作家
【小説宝石 2002年12月号より転載】

こぼれた遺骨
【問題小説 2002年12月号より転載】

作家のあるべき姿勢
【小説現代 2002年12月号より転載】

笹沢左保氏一周忌
 







笹沢左保氏一周忌にて
右、前文芸春秋社長安藤満氏、
左、北方謙三氏。

  








笹沢左保氏一周忌にて
右、中村敦夫氏

  
笹沢左保氏一周忌にて
左、堂昌一氏、中央、前文芸春秋社長安藤満氏、右、梓林太郎氏。
 


 

笹沢左保氏一周忌にて
前文芸春秋社長安藤満氏。
北方謙三氏撮影。

 
笹沢左保氏一周忌にて右、三好京三氏、左小林秀美氏



中央・笹沢左保夫人・左保子氏。右端・中村敦夫氏
  
  
左端・夫人、右端・いんなぁとりっぷ社長・大坪直行氏、
2人目・佐野洋氏。
  
笹沢左保氏遺影の前でマスコミ関係者の取材を受ける。笹沢氏の生前の活躍を示して、多数のマスコミ関係が出席した。
  

笹沢氏の盟友・山村正夫記念教室の生徒たちも偲ぶ会に出席した。
左より3人目・夏樹静子氏、5人目・海月ルイ氏、右5人目・教室代表久保田滋氏、右端・石川能弘氏。

笹沢佐保氏自筆『平家物語』解説文

 笹沢左保氏が拙作『平家物語』に寄せてくれた解説原文である。かなり進行していた病状に耐えて書いてくれた文章で、ご本人は解説とおもっていないかったようである、もっと長い本格的解説を書きたかったようであるが、私にとっては残された気力を奮って書いた壮絶な解説である。少し震えている文字に笹沢氏の友情と作者の魂を見たようにおもった。

笹沢佐保氏自筆『平家物語』解説文


盟友笹沢左保氏を追悼して

 笹沢左保氏は三十年来の盟友である。先に逝った山村正夫氏から紹介されて我々三人組は水魚の交わりを結んでいた。笹沢氏とはイデオロギーも性格も全く異なりながら心に深く共鳴するものがあった。ここに笹沢氏に逝かれて一人取り残されたおもいが強い。

 笹沢左保氏こそまさに最後の流行作家であった。流行作家とは、競い合う文芸誌のすべてに主柱となる作品を掲載し、超人的な量産に耐え、その作者の存在そのものが話題となるようなエピソードに富み、文壇の求心力と起動力となる作家である。常時月産千枚以上、『招かれざる客』『人喰い』などの本格推理小説からスタートして『岬』シリーズ、『木枯らし紋次郎』、『宮本武蔵』など推理、社会、時代小説の名作を約三百八十冊世に送り出し、その多彩な作風と質量は他の追随を許さなかった。眠らぬために立ったまま書いたというエピソードや数々の華やかな艶聞(えんぶん)など既に伝説化しており、折から文芸誌の黄金時代と同調(シンクロナイズ)して、新人の台頭を許さぬ活躍を続けた流行作家の見本のような作家であった。

 私が笹沢氏に初めて会ったのはホテルマン時代で笹沢氏は文壇の寵児(ちょうじ)として全文芸誌を独走しているときであった。特に『人喰い』を読んで強い衝撃を受けていた私は、全身からオーラを発しているような笹沢氏を見て、自分も作家になりたいという強烈な刺激を受けた。笹沢氏は私にその作品と存在自体から強い刺激を与えてくれた兄貴分であった。

 私は笹沢氏を五つの魔性と共生した作家であるとおもっている。第一は文魔、この魔性が三百八十冊もの作品を世に送り出す原動力となった。第二は酒魔、酒なくして笹沢氏を語ることは出来ない。第三は女魔、女の魔性から吸収した女の(さが)ともいうべきエッセンスが笹沢氏の作風に得もいわれぬ(つや)を出している。

 第四に病魔、笹沢氏は死因となった病気以外にも多くの病気を抱えていた。だがこれらの病気を飼い()らし作品を書き続けてきたのである。笹沢氏はついに病魔に倒れるまでヤクザとの決闘や人妻との心中未遂、また瀕死(ひんし)の交通事故など何度も生死の境をくぐり抜けてきた。彼の作風を貫く深い虚無感の底には常に死を見つめていた病影があったようにおもう。そして『木枯らし紋次郎』に結実した放浪の渡世人、安住を嫌ったさすらい人の魔性こそ笹沢左保その人であった。

 病院に亡くなる数日前見舞ったとき笹沢氏は「恥ずかしい」と言った。だがその眼光は鋭く精悍(せいかん)にしてまさに作家の顔をしていた。四百冊達成直前にして力尽きたのが「恥ずかしい」という意味に聞こえた。あと二年生きれば四百冊を達成したにちがいない。笹沢氏はどんな作品を積み残したのか。せめて一冊でも多く積み重ねたかったであろう氏の無念さをおもうとき、偉大な業蹟(ぎょうせき)の前に取り残された自分が恥ずかしくおもえる。

10/23朝日新聞朝刊文化面より転載



積み残した作品への無念

 笹沢左保氏とは三十年来の盟友である。氏が佐賀に移り住んでから間もなく、電話があって、
「森村さん、佐賀へ年に一回来ないか」
 と、誘われた。それ以来、笹沢左保氏を選考委員長に、夏樹静子氏とともに佐賀文学賞の選考に参加して、年一回、佐賀へ行くようになった。のちに北方謙三氏が参加した。笹沢氏の感化を受けて佐賀のファンになった私は、選考会以外にも佐賀へ行く機会が増えてきた。

 ある夜、笹沢氏と佐賀で飲んでいたとき、
「これから祇園へ行こう」
 と、言いだした。私は佐賀にも祇園があるのかと思って聞いたら、京都の祇園へ行くという。夜もかなりいい時間になっている。だが笹沢氏は、
「これから空港まで車を飛ばして飛行機で行けば、祇園の夜に十分間に合う」
 と、大真面目に言う。私は驚いて、
「佐賀で十分ですよ」
 と、引き止めた。笹沢氏にはこんなエピソードがいっぱいある。半ば伝説化していたエピソードを私は笹沢氏にいちいち聞いて、おおむね事実であることを確かめた。

 私が笹沢氏に初めて会ったのは東京・平河町の都市センターホテルに勤めていた頃である。当時、笹沢氏は文壇の寵児(ちょうじ)で月産千枚を超え、折しも黄金期の各文芸誌の中核執筆者として独走していた。笹沢氏の作品の載っていない誌はないと言ってよいくらい、ほとんど全誌を制覇していた。『人喰い』や『空白の起点』を読んで強い衝撃を受けていた私は、同世代のその作者と初めて相見(あいまみ)えて、自分も小説を書きたいという魂が震えるような衝動を覚えた。この頃から私はホテルマンから文芸の方向に人生の軌道変更を考え始めたのである。笹沢氏とは後年、山村正夫氏の紹介で親しくなってから、性格やイデオロギーも全く異なっていながら胸の奥に共鳴するものを覚えた。

 笹沢氏は瀕死(ひんし)の交通事故がきっかけとなって小説を書き始めた。生死の境から(すく)い上げ書き上げた『招かれざる客』を踏まえて、一躍流行作家となった。笹沢氏が死線をくぐったのはその時だけではない。ヤクザとの決闘や多くの病いと共生して常に死の影と直面してきた。笹沢氏の作品が無常観に(いろど)られ、その底流に死の陰影(いんえい)(はら)んでいるのはそのためである。作家の虚無のなかに積み上げるものは作品以外にはない。氏の生涯を彩る華やかな艶聞(えんぶん)は、無常観を基調にした作風に(あで)やかな(つや)を出した。だが、作品ですら満たせない空虚を(うず)めるものに酒があった。酒は文、病い、女とともに笹沢左保の人生の要素であった。

 笹沢左保は、作家以前の半生をどのようなコースを歩もうとも作家たるべく運命づけられた人間であった。享年七十一歳にして約三百八十冊の作品をもってその人生に終止符を打ったが、四百冊達成を目前にして燃え尽きた生涯の遺言(いごん)は積み残した作品の無念の一言に尽きるであろう。氏の無念は、もはや新しい笹沢作品を読むことのできない読者の無念でもある。死の床に最後に見舞ったとき、笹沢氏は、やつれてはいたが眼光は鋭く無念の色に塗られていた。

 積みてなお残る無念や赦免(しゃめん)
 (木枯し紋次郎シリーズ『赦免花は散った』に因んで)

 ご冥福(めいふく)を祈る。

10/24産経新聞夕刊より転載



一期一会の作家

 一九九五年十月、笹沢左保氏の「三百五十冊達成記念パーティー」に佐賀の嬉野温泉に招ばれた。佐賀県知事・井本勇氏、祥伝社前社長・故伊賀弘三良氏、故山村正夫氏、夏樹静子氏、また担当編集者や笹沢氏と親しい人々が約五十名集まって、賑やかな宴となった。だが、そのとき三百五十冊とはちょっと半端な数だなとおもった。すでに病魔が進行していた笹沢さんは、そのとき四百冊達成は無理と予感して、三百五十冊を一応の区切り点として親しい人たちにそれとなく別れを告げたような気がした。だが、その後、元気になってもりもり書きつづけ、三百七十七冊、近刊予定を入れると三百八十冊まで書いたので、この分ならば四百冊達成も間近いと、内心ほっと胸を撫で下ろしていた。

 昨年七月、長年住み慣れた佐賀の住居を突然たたんで帰京していらしたとき、不吉な予感がした。笹沢さんは死を覚悟して帰って来たのではないのか。私は一瞬走った予感を振り捨てようとした。

 山村さんに紹介されてから笹沢さんとは三十年来の交友であるが、想い出は尽きるところがない。笹沢さんとは主義・主張も性格もまったく異なりながら、心の奥に共鳴するものがあった。何度も死線を潜り抜けて来た笹沢さんの作風は無常観に彩られていたが、私は『木枯らし紋次郎』は笹沢さんの反対表現であるとおもっている。「あっしには関わりのねえこって」と一見、冷たく突き放しながら、笹沢さんほどヒューマンで、人間を愛し、愛を尊び、友情の厚い人は少ない。

 笹沢さんの十余年ぶりの帰京のお祝いに、隅田川の遊覧船に乗って笹沢氏ご夫妻を囲んだ。夕方、浅草橋から発船して隅田川河口まで往復するコースである。両岸を東京のイルミネーションが彩り、水上をぼんぼりの満艦飾の大小遊覧船が行き交って、夢のような光景であった。同業作家は、私一人が参加した。編集者に囲まれると言葉の数が多くなる笹沢さんであったが、この夜はあまりしゃべらず、編集者の歓迎の言葉を終始にこにこと笑いながら聞いていた。

 華やかな川遊びであったが、このとき私は、笹沢さんと私たちが同じ船に乗りながら、生死の距離を開いていたような気がする。笹沢さんはあのとき一足早く、三途の川の渡り初めをしていたのではあるまいか。

 三十年に及ぶ交友であったが、笹沢さんとは一期一会の出会いであった。もはや作品でしか彼に会えないとおもうと、改めてその存在感の偉大さに立ちすくんでしまう。ただそこにいるだけでもいいから、生きていてもらいたい笹沢さんであるが、テレビに出演して、
「作家は書かなくなったときから存在しないのと同じだ。作家でも人間でもない。強いて言うなら、人間の脱け殻だ」
  というような要旨の発言をした。四百冊達成を目前にして生命を燃やし尽くした彼の書棚の約二十冊分の空白(スペース)には、無念の青い火が燃えているようにおもえる。せめて一冊、未完の作品を補完して差し上げたい。

小説宝石 2002年12月号より転載



こぼれた遺骨

 運命の出会いというと大げさであるが、自分の人生に重要な関わりを持つ人との出会いはいかにもドラマティックとおもいきや、意外にさりげなく、記憶の中に(けむ)っていることが多い。

 笹沢左保氏と初めて出会ったのは三十数年前、私が東京・平河町の都市センターホテルに勤めていたころであった。当時、文藝春秋の新社屋が私がいたホテルの斜向かいに竣工して、作家が数多く見えるようになった。まず梶山季之氏が都市センターホテルを常宿とし、笹沢氏や阿川弘之氏、黒岩重吾氏、五味康祐氏などがホテルによく姿を見せた。

 初夏のある日、笹沢氏が突然ホテルの正面玄関から入って来て、私の前に立ち、百円コインでフロントカウンターをこつこつと叩いた。テレホンカードも携帯電話もない時代で、笹沢氏は私に十円コインとの両替を頼んだ。両替した笹沢氏は、フロント脇にある赤電話から言葉少ない電話をして、ホテルから出て行った。この間、私とは一言も口をきかなかった。これが笹沢氏との初めての出会いであった。後日、笹沢氏にこの話をすると、まったく記憶になかった。

 そのころ、私はホテルに所を得ず、転職を考えていた。もともと本が好きで、漠然と文芸畑への転身を考えていた私は、そのとき初めて出会った笹沢氏に強い刺激を受けた。

 折から、初夏の午後の陽射しがホテルの正面玄関から射し込んでいた。当時、笹沢氏は『招かれざる客』を引っさげて華々(はなばな)しくデビューして以来、年間平均十余冊の作品を発表し、毎月ほぼ全文芸誌に作品を掲載し、流行作家街道を独走していた。昭和四十七年には十七冊、平成二年には二十一冊の単行本を出版している。この間、『木枯し紋次郎』シリーズや、『宮本武蔵』、『悪魔』シリーズなどの主要作品を発表しているのであるから、その創作力は凄まじいものがあった。

 束の間、午後の客の途絶えた時間帯にフロントに立っていると、私は下半身から静かに腐っていくような気がした。そのときなみなみとした初夏の陽射しを背負って颯爽と現れたほぼ同世代の笹沢氏に、私は自分も作家になりたい、いや、なろうという、魂がおののくような衝動をおぼえた。それ以後、常連客の一人として接遇していた梶山季之氏も、特別の関心をもって見つめるようになった。

 笹沢氏にはなんの記憶も残していなかった出会いが、私にとっては人生の転機となったのである。その意味で運命の出会いであった。もしあのとき笹沢氏に出会っていなければ、私はいずれ作家になったとしても、かなり遅れたであろう。笹沢氏と出会う前に、すでに『招かれざる客』や『空白の起点』は読んでいたが、その出会い以後、笹沢作品を集中的に読んだ。

 後年、作家の末席に連なってから、山村正夫氏の紹介によって親しくなった。性格も主義・主張もまったく異なる笹沢氏であったが、なぜか心に通い合うものをおぼえて、山村氏と共に、水魚の交わりを結ぶようになった。

 一人の人生において、三百七十七冊、近刊予定を加えて三百八十冊もの質・量共に優れた作品を築き上げたのは、尋常の作家でないことは言うまでもない。この膨大な作品を紡ぎ出した笹沢氏の生涯は波瀾万丈であり、ヤクザとの決闘、瀕死の交通事故、人妻との心中未遂、病魔といくたびも死線を潜ってきた。多彩な笹沢作品の基調に無常観が漂っているのは、笹沢氏が常に死と直面してきたからである。

 想像力に富んだ作家は人生を(もてあそ)ぶことはできる。だが、笹沢氏のように死と直面し、常に死の影を凝視してきた作家は、人生と対決している。「あっしにはかかわりのないこと」という『木枯し紋次郎』の台詞(せりふ)のように冷たく突き放しながら、人生に関わっていく笹沢作品には、この世とあの世の境界線を行くような切実なおもいが行間に滲み、読者に迫る。

 なにかの機会に笹沢氏と一緒になったとき、「取材のために少しばかり体験××をして、その人生がわかるようであれば苦労はない」と笑ったことがあった。体験××とは笹沢さんから見れば居心地よい帰るところを持った人間の遊びにすぎなかったのであろう。

 病魔に冒される前から、笹沢さんは死と対決していた。作品の底流となっている虚無感は、疑似体験して得たものではなく、笹沢氏の人生の要素であった。要素を構成するものが酒と病気と女であった。笹沢氏は自分の心身を滅ぼす両刃(もろは)の剣を武器にして、三百八十冊を切り取った。数々の華やかな艶聞は作品に(あで)やかな(つや)をかけた。

 結局、両刃の剣によって七十一年の人生の幕を閉じたが、この三百八十冊は氏の生命をもって(あがな)った作品と言えよう。その業績も偉大であるが、そこにいるだけで圧倒的な笹沢氏の存在感の大きさに、後に残された私は、ただ茫然と立ちすくむばかりである。

 ありし日の想い出と共に、当分埋められない笹沢氏の喪失は、確実に文芸の一つの時代が終わったことを示している。この喪失感こそ、笹沢氏が積み残した作品の無念であろう。

 十月十五日、亡くなる六日前、最後に病床に見舞ったとき、笹沢氏は一言、「恥ずかしい」と言った。それが私が笹沢氏から聞いた最期の言葉であった。四百冊達成を目前にして、命尽きるのが恥ずかしいという意味に私には聞こえた。いかにも笹沢氏らしい遺言であった。ただ一言の遺言に、三百八十冊を積み上げてもなお無念を残す笹沢氏の作家魂が凝縮している。

 以後容態が悪化して面会謝絶となった。せめてあと一度会っておきたかった。

 葬斎場で骨上げのとき、係員が笹沢氏の遺骨がとても多くて、用意した最も大きな骨壺に納めるのに苦労していた。骨壺から溢れそうな遺骨は、まさに笹沢さんが積み残した無念を象徴しているように見えた。大坪直行氏と一緒に遺骨の一片を箸で挟んで骨壺に納めたとき、笹沢さんの無念がひしひしと胸に伝わってくるように感じた。

 こぼれたる骨までも積め渡り(どり)
(木枯し紋次郎に因んで)

 謹んで笹沢氏のご冥福を祈る。

問題小説 2002年12月号より転載



作家のあるべき姿勢

 五、六年前、山村正夫さんから電話が入って、
「笹沢さんが危ないそうだ。佐賀へ行く準備をしておいてくれ」
  と言われた。

 笹沢さんが舌に癌を発して入退院を繰り返しているという噂は聞こえていた。だが、そんなに危険な状態に陥っているとはおもわなかった。私はとりあえず仕事に一区切りつけて、山村さんからの次の連絡を待っていた。だが、そのうちに各小説誌に笹沢作品が掲載され、単行本や文庫の出版が相次いだ。山村さんに電話をかけて問い合わせると、
「あの人は凄い生命力の持ち主だよ。盛り返したようだ」
 と言った。そのうちに山村さんの方が先に逝ってしまった。

 笹沢さんとは山村さんから紹介されて、三十年に及ぶつき合いであった。主義・主張も、性格もまったく異なる我々であったが、心に通じ合うものをおぼえて、同志としてつき合ってきた。

 三百五十冊達成記念パーティーを佐賀・嬉野温泉で開いたとき、井本知事や祥伝社前社長伊賀弘三良氏、親しい人々、山村さんや夏樹静子さんや、担当の編集者諸氏、そして私も招ばれた。井本知事の挨拶にはじまり、祝辞と共に各社編集者から笹沢さんの面目躍如たるエピソードが次々に披露された。

 中でも凄かったのが、K書店のF氏が語ったカーター元アメリカ大統領とのインタビュー顛末記である。ガーナへ取材旅行に行った笹沢さんは、たまたま現地でカーター氏と行き合わせた。

 笹沢さんがインタビューを申込むと、日本の流行作家と聞いてカーター氏は興味をもったらしくアポイントメントが成立した。だが、面会直前になって笹沢さんが、急に会う気がしなくなった、アポをキャンセルしろと言い出したという。カーター氏は約束の場所に来て笹沢さんを待っている。いまさらキャンセルできるものではない。愕然としたF氏は笹沢さんになり済ましてカーター氏と会ったそうである。その様子がテレビで世界に報道された。真偽のほどは確かめていないが、笹沢さんならあり得そうなエピソードである。

 三百五十冊の祝宴は大いに盛り上がったが、冊数としてはちょっと半端な数に、出席者のだれもが、すでに病いを発していた笹沢さんが四百冊は無理と予感して、それとなく別れを告げていることを察していた。賑やかで楽しい祝宴であったが、底流に寂しさが漂っていた。

 人生の途上、何度も死線を潜って来た笹沢さんの作風は、無常観を基調とし、『木枯し紋次郎』に代表される、「自分には関わりのないこと」と冷たく突き放しながら、常に優しく関わっていく。生涯を彩る数々の華やかな艶聞は、作品に(あで)やかな(つや)をかけたが、笹沢さんの胸にえぐられた無常観を満たしきれなかった。

 満たしきれない空虚を埋めたものが酒であった。病いと酒と女は笹沢さんの人生の要素であった。この三要素を栄養源として三百八十冊(三冊は近刊予定)を積み重ねていったのである。だが、この三要素は栄養源であると同時に、作者を滅ぼす両刃の剣であった。両刃の剣を武器に三百八十もの作品を切り取ったのは、心身共に尋常の力ではない。晩年、入退院を繰り返しながら執筆をつづける笹沢さんには鬼気迫るものがあった。

 三百五十冊記念後、日本ミステリー文学大賞受賞パーティーや、十余年ぶりの帰京を祝した隅田川遊覧船の宴、また年に一回の佐賀文学賞選考会などを重ねるつど、笹沢さんにお会いしたが、会う度に、笹沢さんは遠ざかって行くような気がした。

 私は笹沢さんとの別れが近いことを覚悟していた。楽しく賑やかに酒を酌み交わしながら、笹沢さんとの間に生死の距離が開いていく。笹沢さんは死生無常と達観しているようであったが、残される身は辛い。

 この間、私はそれとなく笹沢さんの伝説を一つ一つ確かめた。伝説は伝説のまま(けむ)らせておくべきであるともおもったが、私は笹沢さんの生き方を私なりに確認したかった。三百冊達成記念に、笹沢さんから、本を(かたど)った置時計をいただいたが、これにフランス語で「謎の男」と書かれている。私は伝説を確かめれば確かめるほど、笹沢さんの生き方と存在感に圧倒されていった。

 笹沢さんの謎とは、存在感が大きすぎて量れないという意味であると悟った。訃報を聞く数日前、病の床に見舞ったとき、面に死相が浮かんでいたが、眼光鋭く毅然としていた。笹沢さんは私を見ると、「恥ずかしい」と一言言った。四百冊達成を目前にして、命が尽きることを恥ずかしいと言ったように聞こえた。もし、それが恥ずかしければ誇るべき恥ずかしさである。

 常時月産千枚の超人的執筆量に耐え、質量共に他の追随を許さぬ三百八十冊を築いて、なおも積み残した作品に無念を残す笹沢氏こそ、作家のあるべき姿勢を提示していると言えよう。「作家は書かなければ存在しないのと同じだ」と笹沢氏は言ったが、いま笹沢氏を失い、その存在と業績の偉大さに茫然とするばかりである。

 笹沢氏は何度生まれ変わっても、必ず作家になるであろう。笹沢氏の死去と共に、我々は昭和の重要な部分を失った。

小説現代 2002年12月号より転載



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