壁の目

25〜26歳のころ、ホテルマン時代、私が寄宿していた練馬区内のアパートの1室の壁に、小さな穴があいていた。その穴から隣室の一部が見えた。隣室には若い様子(容姿ではない)の美い女性が入居していたが、彼女とは一言も言葉を交わしたことはなかった。穴から覗く隣室も片隅であって、生活の主たるスペースは死角になっている。隣人は1年ほどそこに住んでいたが、どこかに引っ越して行った。引っ越した後、もはや彼女はいないのだなと寂しくおもいながら、なにげなく穴を覗くと、隣室が見えない。よく見ると、そこには紙片がつめ込まれていた。つまみ出してみると、メモ用紙に「お世話になりました。お元気で。さようなら」と書かれてあった。私はおもわず赤面した。このときの体験がこの作品に実った。
彼女はいま、どこで、どんな生活をしているであろうか。大都会での出会いは、宇宙空間での別の惑星から来た宇宙船の遭遇のようである。私は壁の穴から別の宇宙を覗いていたのかもしれない。

祥伝社
1996.7

*祥伝社
1999.6

祥伝社文庫
2001.8
集英社
2004.9

 


 
 
 
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