垂直の死海

高校を卒業して、大学に入るまでの間、新橋の自動車部品会社に勤めていた。この間、自転車の荷台やリヤカー(自転車専用運搬車)に自動車部品を積んで、都内・都下、近郊に配達した。私はそれが楽しく、人のいやがる配達を志願した。このときの経験のおかげで、都内・都下、近隣県の地理に通じた。
横浜へ配達したとき、川崎市域で目にゴミが入って除れなくなった。困っていると、近所の家から若い奥さんが出て来て、親切にゴミを除ってくれた。ゴミが除れた後もしばらくは、涙に霞んで視野がぼやけていた。そんな奥さんの顔は霧に潤んだような視野の中で、ミステリアスに優しく、美しく見えた。
後日、奥さんに礼を言いたくて、淡い記憶を便りにその家を探したが、どうしても探し当てられなかった。年月を経るほどに、あのときの若い奥さんが青春の幻影のように烟っている。その幻影が後年、本作品や『霧の神話』に結像した。

*講談社
1983.5
講談社文庫
1986.8
青樹社文庫
1995.4
廣済堂文庫
1998.7
コスミック出版
2004.11
 

 
 
 
このページはフレームの構成ページです。メニューが表示されない場合、こちらをクリックしてください。
『当サイトの内容一切の無断転載、使用を禁じます。』