9条、平和ブランドを捨て去る理由はない

2007.5.3 朝日新聞社説より

日本社会がつくりあげた資産

(前略)
 9条を今日の視点でみると、大きく言えば四つの歴史的意義がある。

 第一に、日本が再び戦争に直接かかわるのを防いだことだ。むろん、日本を巻き込むような大戦争が起きなかった幸運があってのことだが、自衛隊が韓国軍のようにベトナム戦争へ派遣されることもなかったし、防衛費の規模も抑え気味にできた。60年の間、この原則が貫かれたことで「戦争には加わらない国」「軍事力で何かを押しつけることはしない国」という、ユニークな平和ブランドを国際的に築くこともできた。

 第二に、9条のおかげで戦後社会から軍国主義がすみやかに姿を消したことだ。戦前のような軍事優先の価値観ははっきりと否定された。徴兵制もなければ、秘密の軍事裁判もなくなった。それは戦後社会における批判の自由の支えにもなった。「軍事」が幅をきかせた戦前・戦中の日本では、法案を審議中の国会で、説明員の軍幹部が議員を「黙れ」と一喝したり、軍を批判した議員が除名されたりしたことがあった。9条は「戦後日本の安全弁」である、と憲法学者の樋口陽一さんは言う。

 第三に、侵略戦争と植民地支配という負の歴史への、反省のメッセージとして9条は国際社会に受け止められた。あの過ちを繰り返さないという、国民のしんし真摯な思いが読み取れたからこそ、戦後の日本と日本人への信頼を取り戻すことができた。まだ過去の傷の癒えない人々が近隣諸国にいる。戦争や植民地を経験しなかった世代にも、記憶や歴史は引き継がれていく。9条でメッセージを発し続ける意味は今も失われない。

 第四に、国民に「非軍事」の持つ潜在力を考えさせる視点を提供した。

 20世紀までの国際社会では、軍事力の持つパワーは圧倒的だった。しかし21世紀に入るあたりから、そのパワーにはっきりと陰りが見え始めた。9・11同時テロを思い起こしてほしい。カッターナイフだけを持った少数の実行犯がジェット機を乗っ取り、あれほどの大事件を引き起こした。国と国との争いに重点を置いた、伝統的な軍事力の考え方では対応できない事態だ。いま、米国の強大な軍事力をもってしてもイラクを治められない現実が、なによりもその限界を象徴している。テロや大量破壊兵器の拡散、感染症、地球環境問題などのように、軍事力では手に負えない課題が増えている。

 では、どうすればいいのか。軍事力の出番がなくなったわけでは決してないが、それだけでは解決できない。結局は、多様な外交手段を使い、対話や国際協議、多国間の約束などの枠組みの中で、ねばり強く解決を探っていくしかないのだ。

 9条が前文とともに打ち出した平和主義の理念は、21世紀の今日を見通したような底力を持つ。私たちが提言した「地球貢献国家」も、そうした考え方に基づく。武力では対応できない脅威にどう立ち向かうか。そこで汗をかくことこそ憲法の理念を生かすことであり、21世紀の日本が果たすべき役割なのではないか。

 社説15と社説16で国連の平和活動、「人間の安全保障」への積極的な参加を提言した。国連PKOにおいて、実力部隊として自衛隊が担う役割は小さくはない。だが、日本の主眼はあくまで非軍事の活動に置き、NGOや民間を含めた幅広いものにしていく。なぜなら、そこに時代の要請があると考えるからだ。

 軍事力の効用に限界が見えた世界で「国際公益の世話役」となり、地球と人間の現在、未来に貢献していく。そうした日本になるために、9条の理念は新しい力を与えてくれるに違いない。捨て去る理由はまったく見あたらない。

変えることのマイナスが大き過ぎる

(前略)
 自衛隊が普通の軍隊と違うのは、集団的自衛隊を行使せず、海外で武力行使しないといった原則を持つからだ。あの戦争への反省に立って打ち出した「不戦の誓い」を具体的に支えるものなのに、それを撤廃すれば、戦後日本の基本軸があいまいになる。周辺国の不安を招き、地域の緊張要因になる恐れがある。

 さらに、社説14で述べたように、9条は強大な同盟国・米国からの過大な要請をかわす盾の役割を果たしてきた。それがなくなった時、米国の政策に際限なく振り回される恐れはないか。歯止めや盾の役割は、政治が果たす。民主的に選ばれた国会、内閣がそのときどきの民意に基づいて判断していけばいい、という考え方もある。

 理屈はその通りかもしれない。だが、「外圧」という言葉に象徴される戦後の対米関係を考えた時、政治が本当にその役割を果たせるのか、心もとない。

 イラク派遣の時のことを思い出してほしい。小泉前首相が米国の判断を支持し、自衛隊を送ることまで決断した際、理由の一つとして強調したのが日米同盟だった。つまりは、米国の求めはむげにはできぬということだ。陸上自衛隊が無事に戻った時、前首相は胸を張った。戦闘に巻き込まれず、犠牲者も出さなかったと。そのことは良かった。だが、それは9条の原則と何とかつじつまを合わせようと、比較的安全な場所を選び、危険の少ない任務に専念した結果でもあった。

 9条に照らして疑問のある派遣だったが、実は9条に救われていたのだ。それがなければ、開戦の当初から米軍と戦闘正面に立ち、多くの犠牲者を出した英国のようになっていたかもしれない。

 日米同盟の安全装置としての9条のメリットは捨てがたい価値がある。

 そもそも、この60年をかけて培ってきた日本の「平和ブランド」を手放す損失は大きすぎる。日本ほどの経済力を持ちながら、軍事に厳しく一線を画す。このユニークさは国際社会にも知られ、重要なソフトパワーになっている。それを生かしてこそ、「国際公益の世話役」として日本への信頼を築くことができる。


 

高橋源一郎氏

ニッポン国憲法の秘密

(前略)
 さて、わたしは長い間、ニッポン国憲法というものをなかなかいいものではないかと思ってきた。
 いまは違う。評価を下げたって? ノーである。逆に上がった。古びるどころか、21世紀のいまこそぴったり、筆舌に尽くしがたいほどイケてるんじゃないかと思うようになったのである。
 ところで、ニッポン国憲法といえば、最大の問題が9条であることに異存はない。
(中略)
 この2項の保持しないことになっている「戦力」を、この国は保持している。明らかに矛盾ですねえ。では、この矛盾を解消する方法はないのか。実は、わたし、考えてみたことがあるんです。

 詳しくは書かないが、それは「自衛隊を予算ごと全部国連にプレゼントして国連軍にする」という案だ。そうなると、自衛隊=国連軍は日本の「戦力」ではないのだから、なんの問題もない。しかも国連軍が日本に常駐するのだから、安心この上ない。うーん、グッド・アイデア、と思っていた。

 しかし、ある時、内田たつるさんが『9条どうでしょう』という本に書かれた文章を読んで愕然がくぜんとしたのである。そこには、憲法は矛盾しているからこそ素晴らしい、と書いてあったのだ。そんな発想ありかよ! 目からうろことは、このことですよ。

 内田さんは、こんなことを書いていた(たぶん)。
 ──戦後60年、「戦力」を持たないと憲法に明記しながら、実際、この国は「戦力」を保持してきた。その結果どうなったか。すごくうまくいっちゃったのである。おまえのところは一人前の国だから海外に軍隊を派遣せよと言われれば「憲法があるので無理」と答え、「軍備を増強せよ」と言われれば「まあ、憲法もあるのでほどほどに」と答える。

 憲法に縛られ、弾の1発も自由に撃てない「日陰者の軍隊」をショーウインドーに飾り、他の国の憲法諸君が、なんの悩みもなく「イケイケ」でいるのに対して、この国の憲法は、青ざめた表情で様々な「矛盾」に絶えず苦しんできた。そして、その合間に、ひそかに経済発展に専念することができたのである。平和と繁栄を享受できたのは、憲法が「矛盾」していたおかげなのだ──。

 いやあ、「矛盾」した憲法で良かったね。でも、なぜ、こんな、類のない「矛盾」が、この国の憲法に書き込まれていたのだろう。

 『憲法九条を世界遺産に』で、中沢新一さんは「憲法九条を含む日本国憲法」が、どれほど「尋常ではない」かについて、驚くべき意見を書いている。このように。

 ──あらゆる生命体が持っている大きな特徴、というか機能が一つある。「免疫機構」だ(体に細菌が入ると、やっつけるために白血球が現れる、というやつ)。自分とは「異質な他者」が入ろうとすると排除する、この機構をあらゆる生命体は持っている。実は国家も、この機構を持っている。それが「武力」だ。

 ところが、日本国憲法には、その機構がない。この国は「免疫解除原理」を持っている。そんな国は他にないのである──。

 これだけでも驚くべき意見だが、中沢さんは、さらに、同じ「免疫解除原理」を持っているものが、憲法9条以外に少なくともふたつある、と書いている。それは、本来、異物である新しい生命を、「免疫機構」を解除して慈しみ育てる「母体」と、本来、対話不能の人間と動物がコミュニケーションを持てる「神話」だ。どちらも「異質な他者」を迎え入れることができるのである。

 だが、わたしなら、そのリストに「文学」を付け加えるだろう。
 カフカの『変身』を読んで「どうして人間が虫に変身するんですか。意味がぜんぜんわからない」と言われても、わたしにはわからない。書いたカフカもわからなかっただろう。「文学」は答えを出さない。ただ、問いかけるだけなのである。

 では、なぜ、問いかけるのか。人間というものは、おそろしいほどに怠惰な存在で、放っておくと、なにも考えず、暴走しちゃうからである。そのために、年がら年中、問いかけ続ける必要があるからだ。「文学」はそのために存在しているのである。

 およそ60年前、二つの国の人たちが力を合わせて、ニッポンという国に、前人未到の新しい憲法を作ろうと考えた。それまでのどんな国の憲法にもない「原理」を導入しようと考えたのである。

 アメリカは、勝って浮かれていた。ニッポンは、負けて脳震盪しんとうを起こし、気絶していた。憲法などと国家的原理を作る重大時なのに、どちらの国も、ぼんやりしていた。憲法を作ろうとした人たちが、自分の所属するどちらの国にも気づかれず、そっと、理想の「憲法」を作るには、絶好のチャンスだったのである。

 彼らは、国家の原理の中に、前例のない「矛盾」を、「自分自身を疑う」という機能を、「異質な他者」を受け入れるという機能を、本来、国家の原理とは厳しく対立する生命や神話や文学の原理に近いものを埋め込んだのだ。

 ニッポン国憲法は、マグナ・カルタや「権利章典」以来の憲法の歴史に、新しいコトバを書き加えた。政治のコトバしか知らなかった憲法に、神話や文学や哲学のレベルのコトバを付け加えた。彼らは、来るべき世界の混乱に立ち向かうためには、そのレベルのコトバが必要だと考えた。それが、おとなの叡智えいち

というものなのだ。

 彼らの予感は正しかった。
 宗教戦争やテロはなぜ起こるのか。難民はなぜさまよ彷徨い続けねばならないのか。イジメはなぜなくならないのか。ネットでなぜいつも誰かが血祭りに上げられるのか。

 それは、人々が、無意識の中に、「異質な他者」を排除しようとするからだ。打ち破るべきは、その「原理」なのである。

 こんな考え方は空想的で、現実的な力を持たないのだろうか。

 実は、逆だ。生命や神話や文学の原理の方が、国家や政治の原理よりずっと、限りある我々の生を豊かにする……現実的な力を持って・い・ることを歴史は教えてくれる。だが困ったことに、子どもには、おとなの叡智がわからないのだ。


 

平川克美氏(リナックスカフェ社長)

憲法改正 9条、「理想論」で悪いのか

 国論を二分するような政治的な課題というものは、どちらの側にもそれなりの言い分があり、どちらの論にも等量の瑕疵かしがあるものである。そうでなければ国論はかようにきっぱりとは二分されまい。国論を分けた郵政法案の場合も、施行60年を迎えて近頃かまびすしい憲法の場合も、重要なのはそれが政治課題となった前提が何であったかを明確にすることである。

 政治は結果であるとはよく言われる。仮に筋の通らぬ選択をしたとしても、結果において良好であればよしとするのが政治的な選択というものだろう。ただし結果は結果であって、希望的な観測ではない。米国のイラク介入の結果を見るまでもなく、しばしば自分が思うことと違うことを実現してしまうのが、人間の歴史というものである。

 その上で、憲法改正の議論をもう一度見直してみる。戦争による直接の利得がある好戦論者を除外すれば、この度の改憲問題は反対派も賛成派も平和で文化的な国民の権益を守るという大義によってその論を組み立てている。

 9条をめぐって護憲派は、広島、長崎に被爆の体験を持つ日本だからこそ、世界に向けて武力の廃絶を求める礎としての現行憲法を守ってゆくべきであると主張し、改憲派は昨今の国際情勢の中で国益を守るには戦力は必須であり、集団的自衛権を行使できなければ、国際社会へ応分の責任を果たすこともできない、と主張する。

 なるほど、どちらにもそれなりの正当性があり、等量の希望的な観測が含まれている。しかし将来起こりうるであろうことを基準にして議論をすれば、必ず両論は膠着こうちゃくすることになる。

 では、確かなことはないのかといえば、それは戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していないという事実がこれにあたる。政治は結果と効果で判断すべきだというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもよいのではないかと思う。これを国益と言わずして、何を国益と言えばよいのか。

 「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離かいりしているといった議論がある。私は、この前提には全く異論が無い。その通りだ。確かに日本国憲法には国柄としての理想的な姿が明記されている。理想を掲げたのである。そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。

 もし現実の世界情勢に憲法を合わせるのなら、憲法はもはや法としての威信を失うだろう。憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。当の政治家が、これを現実に合わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が刑法が自分の活動に差し障ると言うのに等しい。

 現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意を払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。

2007年1月13日朝日新聞「私の視点」

 

田中優子氏(法政大学教授)

「憲法は普通の法律とは全然ちがう。憲法とはたとえば、私の国はこういう顔をしているとか、こういう理想を持っているという決意表明でもあるのだから、現実にそぐわないところがあっても当たり前だとおもうんです。これは国が目指す方向、理想を表明したものだから、現実にそぐわないから現実に合わせましょうという、こういうのを普通は堕落と言うんです。理想を放棄しようとするのですから堕落でしょう。(中略)憲法を変えるということ自体、まちがっていると私はおもいます。」

 

小山内美江子氏

 憲法と現実の矛盾を解消して、「すっきり」したいのであれば、憲法9条第2項を次のように改めればよい。

─前項の目的を達するため、陸・海・空軍、その他の戦力をやむを得ず保持した。国の交戦権は、これを認めない─

 

森村誠一

 憲法改正論議が高まっているが、改正という言葉は現行憲法が誤っているという認識に立っている。国民の多くが改定に反対している憲法を、安易に改正呼ばわりするのは正しくない。

 憲法改定のキイポイントは三つある。
 1、現実に合ってない。
 2、国際貢献ができず、世界で孤立する。
 3、戦力不保持を規定する9条2項と、自衛隊の存在が矛盾する。

 そもそも日本国憲法は戦争の犠牲と、世界初の核兵器の攻撃を受けた痛みと、かかる惨禍を二度と繰り返すまじという願いを込めて制定されたものである。

 日本一国に留まらず、国際紛争を解決する手段としての戦争に終止符を打つべく、永久平和主義と戦力の不保持を世界に高らかに宣言したものである。

 日本国憲法には人類の理念と悲願が込められている。日本国憲法は人類共通の理念の灯台といってもよい。現実と理念に差があるのは当然であって、この距離を縮めようと努めるのが人間の英知というものである。理念を現実に売り渡すことは、過去からなにも学んでいない、思考の停止というよりは退行である。

 民主主義は平和を前提にして成り立つ政治形態である。これがいったん戦争となると、どんな民主国家であっても、民主主義は制限されるか、崩壊する。

 戦争は人命を殺傷、国土を破壊するだけではなく、人間の精神を損傷し、人間性を歪めたり、変質させたりする。思想や表現の自由はもちろん、人間的自由の悉くを奪い、人間の生活を、生きていくために必要な最小限の生存に変えてしまう。生存にとって不必要なすべての芸術は圧迫され、娯楽、趣味、嗜好品、ファッション、おしゃれ、風俗など奪われたり、弾圧されたりする。人間に生存しか許されなくなったら、それはすでに人間ではない。そして次第にそういう生存に慣らされていく。戦争ほど人間性を奪うものはない。

 戦争になると、民主主義の三大原則である思想の自由と、政治の透明性と、合議制が崩れてしまう。一人一人に自由の思想を許していては、挙国一致して敵に当たれない。戦時下においては、まず国民の思想の統一が行なわれる。表現や行動の自由が規制される。政治を透明にして、のんびりと合議していては作戦が敵側に漏れ、立ち遅れてしまう。

 永久平和主義と基本的人権を保障した日本国憲法にとって、戦争が天敵であることは自明の理である。民主主義は思想の自由を許すので、民主主義に反する思想も認めなければならない。つまり、常に体内に敵を抱えている非常に脆い政治形態である。

 民主主義の敵は、民主主義を覆すと、思想の自由を許さないので、ふたたび民主主義を取り返すためには長い時間と大量の血を流さなければならない。

 世の中には戦争の好きな人間がいる。彼らは常に仮想敵を設定して、国民に危機感を植えつけ、平和を前提とする民主主義に揺さぶりをかける。

 好戦論者の主張は、いつの世にあっても勇ましく響く。かつて軍国主義花盛りの時代に、反戦平和主義を唱えようものなら、「きさま、それでも日本人か」と、軍刀のこじりをガチャリと床に突かれるだけで沈黙させられた。国を愛する方法の選択肢は、銃を取って戦うことしかなかった。
「憲法といえども不磨の大典ではなく、時代の変遷と共に変わるものである」といわれると、「そんなものかなあ」と、つい誘導されてしまう。だが、戦争の痛みと悔恨を踏まえて、憲法前文と9条に織り込んだ人類永久の理念が60年弱で揺れるのは情けない。

 9条と自衛隊の存在の矛盾があればこそ、日本は晴れて戦争することができず、他国の人間を一人も殺さず、憲法違反の自衛隊に手厚く守られながら、日本史上未曽有の繁栄を達成したのである。いまや世界有数の金満国家となれたのは、9条と自衛隊の間に矛盾があったからである。これを論理的にすっきりさせれば、自衛隊は晴れて戦争ができるようになり、人類の理念を掲げた世界の灯台日本は、戦争ができる金満国家の一つに堕してしまう。

 真の平和とは、戦争がない状態だけではない。戦争ができない保障システムが確立していることである。日本にとって最大の国際貢献は、憲法、特に9条を守ることにある。自衛権とか、現実に合わないという詐言に騙されてはならない。

 イラク戦争はアメリカ大統領一人の意志によって始められた。米大統領がやめようといえば、イギリスやスペインは一国でもやるとはいわなかったはずだ。現実に合わせて、国際貢献というが、要するにアメリカと歩調を合わせて戦争ができるシステムに変えようとするのが改憲の眼目である。目先の狭い視野に晦まされて、人類の理念を売り渡してはならない。

 過去からなにものも学ばず、思考が停止、むしろ退行しているのが改憲である。

 

不破哲三氏

「いま進んでいる憲法改定の焦点としてどこに最大の問題があるかは、この経過のなかに、鮮明に浮かび上がってきています。
 浮かび上がっているその焦点とは、
 ──自衛隊を、海外で、米軍といっしょに戦争のできる軍隊に変えること、
 ──そして日本が、そういう戦争能力を持った同盟国として、アメリカの戦争に参戦できる国になること、まさに、この点であります。」

 

杉原泰雄氏

「憲法第九条は、軍隊と戦争が伝統的な意義をもちえなくなったとの認識を示すものであった。伝統的には、軍隊と戦争は、外国の侵略から国家の独立と国民の人権を守る最後手段として、国家に不可欠なものと考えられてきた。世界の大多数の国は、いまなおこの考え方をとっている。憲法第九条は、広島・長崎の経験をふまえて、軍隊と戦争がそのような手段としての性格をもちえなくなったとの認識に立ち、伝統的な考え方と決別することを示すものであった。」


 

ジェームス・三木氏

「(前略)皮肉なことに今の日本は、アメリカの世界戦略に組み込まれ、韓国とともに極東の防波堤にされています。戦争はなくならない、国際紛争の解決は武力によるしかない、それが世界の現実だという考えが、自衛隊という名の軍隊を生みました。その自衛隊を合法化するために、憲法を改正するというのは、できちゃった結婚とよく似ています。
 国家の基本法である憲法は、国家権力の暴走を戒める縄のようなもので、国民が改正を望むならまだしも、権力側にある者が、縄を解いてくれというのは、うさん臭いと思わなければなりません。
 目先の現実ではなく、百年後に視点を据えれば、人類の滅亡を防ぐために、私たちが何をすればよいのかが、鮮明に見えてくるはずです。日本国憲法はまさしく、人類の理想への道しるべなのです。」

 

三浦恒夫氏

 自国の憲法を歌にして歌っているという歌手を、きたがわてつ以外に私は知らない。しかも、彼は日本国憲法前文はラブソングだと言う。ラブソングと言いきった彼の言葉は心地よい衝撃だった。
 唯一の被爆国としての悲しみと戦争の反省から生まれた日本国憲法に守られ戦後の六十年が過ぎたが、日本国憲法をラブソングという意味は軽くはない。

山も 川も 海も
父も 母も 空も 大地も
労働も希望もあそびも旅も風景も
憎悪の連鎖さえものみ込んで
うたは ありがとうの心つたえ
うたは 心ひらき
うたは 許しあい励ましあい
うたは 夢になり希望になり
うたは 愛を讃える
うたは そのとき・・・
     時代の風になり
     季節の光になる

きたがわてつの三十周年を祝う。
シュクラン・ジャジーラン

 

小林カツ代氏

前略 ― 憲法のしばりがあればこそ守られている平和が、迷彩服に身を固め、武器を備えてイラクに出向く自衛隊によって、確実に破られつつあります。小泉氏はじめ、派兵賛成派がことあるごとに言う言葉「お金しか、、出さない日本。これでは真に平和貢献と言えない」。 ― 中略 ― お金しか、、? お金さえ。、? なんですかそれ! 冗談じゃない。国民の中の派兵賛成派も正義感に燃えて錯覚している。なぜ錯覚かというと、金だけじゃねえという。そのお金は、誰が稼いでいると思っているのか。私たち国民が、毎日、働いて働いて、くたびれて果てて得るお金がまさに血税。イラクまで行って何かをするわけでなくとも、この日本で、体をこき使ってよその国に、それも多額のお金をあげるのです。平和にために何もしない、なんて二度と言って下さるな。

 

9条は世界の普遍的精神 作家 井上ひさし氏

 第2次世界大戦で、パリ・ローマは無防備都市を宣言した。私たちの街にはたくさんの文化遺産がある。市民は戦争を望んでいないと、オープンシティーを宣言する。
 そうすると、そこを攻撃してはいけないとなり、パリもローマも第2次世界大戦中、一切の戦闘が行われなかった。
 1977年に「戦争で死ぬのは95%以上が普通の市民である」と、国際的な戦争の取り決めをしたジュネーブ条約のなかに議定書が決められた。この街には戦闘員がいない。全部撤退した。何の防備もない。市民は戦いたいとは思っていないと宣言すると、無防備地域になる。敵は一切攻撃できなくなる。
 きっかけは日本国憲法。戦争を放棄する国を国際的に守るために無防備地域を国際的に決めようということになった。これを推し進めた力は、疑いもなく日本国憲法前文と第9条だ。

 

【日本国憲法 前文】【金沢弁】 桜井裕子氏

前略
 わたしらは、どんな国であろうとも、自分の国のことだけ考えて、自分らだけ、いい思いをするがやなんて思うたらだめながでっそぉ〜。ほんなことは、絶対にしたらいかんがやねぇ〜。正しい、立派な政治ちゅうもんな、人間が正しいことを正しいがにやる道理にかのうたものながや。ほれは、世界中かいつでも、何処ででも当てはまるもんながやねぇ〜。
 ほしたら考え方にたつことで、それぞれの国の独立や、その国の政治が成り立つがですわいね。ほれでこそ、はじめて、国と国との間の平等、対等な関係がちゃんとうまいこと保たれますがや。ほやさかい、こうしたことは、それぞれの国が絶対守らんといかんつとめながやと信じとるがです。
 わたしら日本国民は、わたしらの名誉にかけて、全力をあげて、この気高く、尊い理想を掲げて、その目的を実現していくために力のある限り努力することを誓います。
 

【上州弁】(森村の郷里の隣県、最も近い方言)

 わたしら日本の国民な、みんながわりいことかんげえねえでいて、よいじゃねえ思いしねえで、安心して生きらいる平和な世界を心から願ってるんさ。そいで、もしも国と国とが戦争おっぱじめたとするだんべ。
 だからっつってさあ、なんかしゃあ理由こしゃえて軍隊送って武力で解決するなんてしちゃっちゃあ、ま〜た憎しみを生むだけだんべがね。
 よそ様の所なんて行がっといいがね。だから、これからさきゃあ武力の行使っからは尻はしょっちゃうんさ。

 それでな〜よ、ハァ戦争はしめぇにするって決めたからさあ、陸、海、空軍ずらねえ。ミサイル、爆弾だの、おっかねえ武器はなあんにも持たねえん。
 軍備増強だなんつうことは、おっぷっときゃあいいんさ。そんで国は戦争してもよかんべやなんていうんな、ハァ、絶対認めん。

 

【福井弁】

 わちらぁ日本国民はの、人としてぇ、いいこと、悪い事を、人の道に従うぅ考え方を基本にの、力いっぱい願いを込めてぇ、世平和を保つ為にぃ、軍隊やらミサイル、戦車やらでぇ驚かしたりしる。悪い事をの、永久に投げてむてぇ、戦争はぁ認めんしぃ、させんのやって決めたんやといのぉ。
 ほいての、目的をぉ守る為にの、戦車やら潜水艦、ミサイルやらぁ、他の戦力を持たんのや。ほいてぇ、日本はぁ、戦争しる権利もぉ、投げてまうしぃ、認めんってぇ決めたんやざぁー。
 ほーやってせんかったらぁ、世界中がの、わけもねぇことんなってまうんやざぁ。おとろっしゃのうぉ。

 

【福井弁】

 うららぁ、日本国民はの、一人ひとりがぁ、人間らしい生きる為にの、根性据えてぇ、世界の平和をぉ願うてがんばるんやぁ。

 ほいての、軍隊はの、孫子の代まで持たんしぃ、軍隊はぁ、ちょっこしもせんぞっての、誓こうたんやざ。

(訳者 坪川令子氏)

 

【信州弁】(北信)

「おらほのことばで憲法を」  原山晃氏(長野県退職・教職員会長)

 おらあだりゃなえ
 なにょっ「おらあって何だ」
 なんだせったって おめえ
 「日本国民」ってこんだらず

 おらあだりゃなえ
 ひんまがったこたあ でえっきれだで
 しゃばじょうのしょうと
 あんべよく 暮らさずと思ってるだなえ

 国と国だってなえ おめさん
 えっくらけんかこえたっていいこたあ何もねえさ
 けんか好きなんてやんどまあ、やくざじゃねえかえ
 鉄砲だ爆弾だせうもんもなえ
 使っちゃえけねもんなんだぜ

 使っちゃえけねだけだねえで
 鉄砲や爆弾せえもんはなえ
 持っちゃえけねえもんだらず
 持ちゃおめ使っちまうだねえかなえ
 持たねえのが えちばんだらず
 こりゃおめ 憲法で決めてるこんだで

 戦争になりゃなえ
 みんな殺されちゃうだで、ふんとだで
 イラク見たって、もうらしいだねえかえ
 イラクのぼこ見て おめさんなっちょだえ
 
 ふざけるでねえど おい
 てえげにしろせんだ
 憲法変えるせえこんせってるもんえるけんど
 そんなこんさせてたまるか
 おえ おえ わんだれ

 若けえしょも 年寄りしょも
 男しょも 女しょも ずく出して えっぺ出して
 憲法守って 戦争しねように
 みんなでやらずだねえかえ

 ごくなしどもだって みんな集まりゃ
 でけえ力になるもんだで なえ

 

【名古屋弁】

 日本国民はよぉ、正義と秩序を基調としとりゃーす国際平和を誠実に希求せなかんのだわ。
 だで、国権の発動っちゅー戦争とかよぉ、武力によりゃーす威嚇もだがや、ほれか武力の行使は国際紛争をまぁるうおさめる手段としては永久にこれを放棄するんだて。

 ほいで、前項の目的をあんじょうようするため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持せえへん。
国の交戦権はこれを認めぇせん。

(井上池鶴氏 )

 

関西弁憲法第九条 田中嘉治氏

一項
 日本の国民はな、正義と秩序ちゅうもんを基調とする、国際平和を誠実にやな、希求してな、そいで、国権の発動たらなんたらいう戦争と武力による威嚇とかやな、または行使ちゅうもんは、国際紛争を解決しよる手段としてはな、ずっとこれからも永久にな、これを放棄するんや。

二項
 前の項のな、目的を達成するにはやな、陸海空軍や、そのほかの戦力はやな、これを持てへんのや。国の交戦権ちゅうようなもんは、これを認めたらあかんのや。

「悪魔の飽食全国合唱団協力」


 

会津弁「憲法第9条」河原田ヤスケ氏作

 俺達オラダヂ日本国民はなし、正義を大事にする国なんだし。
なんでがっつうど、良いエエごど悪いごどの道理ど、筋道の通った正義を大事にすっぺ。
そして、いいあんばいに暮らせる世の中につぐっごどを、心がら願ってんだし。
んだがら、ほがの国どいっぺい仲良ながよぐして、なじょしても戦争だけはしねえっつう、三つの約束決めたんだなし。

一づめは、
昔だったらなし、世界では、「戦争はじめっぺい!」つうって「号令」かげっど、すぐ戦争おっぱじめだべし。
んだげんじょ、今の俺達はそったらごど思ってねえんだよ。
あど、ほがの国がゆうごどきかねえもんだがら、「にさ!原爆でもミサイルでもぶっこむぞう」つって、おどがすごどもねぐなったんだし。
はっきりいうど「これがらは、戦争は絶対やっちゃ駄目だ!」つって、日本国民は心に誓ったんだべな。

二づめは、
今しゃべったごどを守るだめにも、軍隊や武器は持っちゃなんねえごどになったんだ。
陸軍だどが、海軍、そして空軍なんかもあだりめえだべ。
そして、爆撃機だ、戦闘機だ、軍艦だ、潜水艦だ、戦車だ、ましてや原子爆弾どが、ミサイルなんつうもんもだ。
それがら、若げいもんを無理やり赤紙一枚で、兵隊にぶっこむ徴兵制もねぐなったんだ。
軍事を持ってねげれば、戦争もできねえべ。

それがら、三つめはなし、
これが一番大事なんだげんじょも、俺達の政府が戦争おっぱじめるつう権利「国の交戦権」だな、
これは、なじょしても絶対認めではなんねえんだ、「みどめねえ」って書いであっぺいな!
みんなわかったべ!
憲法9条、戦争の放棄、いい言葉だべ。
んじゃ、だまってねえで声だしてくんつえよ!


 

【京都府】舞妓ことば

「全国お郷ことば・憲法9条」坂井泉氏編集より抜粋

 1. いやあ、あてらみんながほっこりええ気持ちで過ごせるような社会が、ほんまに来たらええなぁ思うとるんどす。そやさかい、どこぞのお国がいけずなことしぃはったかて、どないなこたあっても、てっぽ(鉄砲)持ってわやくちゃ(無茶苦茶)したりぜぇったいせえしまへん。そないなことしたら子ぉたちがどんな思いするか、どうぞ考えとくれやす。兵隊さん送るやなんて、てんご(悪い冗談)いわはったらあきまへん。送るんやったらおせんやべべにしときなはれ。

 2. あてらきっぱり決めたんどす。戦争ほかした(捨てた)んやさかい、爆弾やら大砲やら、これからずぅっと持たしまへん。誰が何ゆうたかて、戦こうたらあかんのどす。まあぶぶ漬けでも一杯どうどす? えっ、いらしまへんか? ほなおおきに。
 

【京都弁】

1. 日本の国民は、正義と秩序をもとにした国際平和をちゃんとほんまに願うてますさかい、国の権力によっていくさを起こしたり、武力によっておどかしたり、武力を実際に使うことは、国際紛争を解決するための手段としては、永久に放棄してしまうのどす。

2. 前項の目的をやり遂げようとするためやったら、陸海空軍その他の戦力は、これをもつことはあらしまへん。国家がいくさをする権利もおへんし、これを認めることもできしまへんのどす。

(堀井令以知氏)
 

 

戦争を正当化する詭弁の見本

大日本戦史
「文化と戰争とは、一見對蹠的な事實であるが如く見られる。けれども事實は、戰争は人間生活の最高峯に達した一の文化現象といふべきである。現在日支間に行はれて居る戰闘にしても、武器は勿論、用兵作戰その他後方緒設備に至るまで政治經濟は固より、學藝技術等所有方面に於いて、兩國は各々その有する全力、即ち、建國以來の長き歴史の下に作られた國民文化の精華を、全面的に傾け盡して、之に従事して居るのである。かゝる事實は古にあつても、何等變ることはない。この意味よりすれば、戦争こそは他の如何なる現象よりも、より高くより大きく評價せらるべきであると信ずる。たゞそれが普通一般には、破壊的方面を代表するものなるかの如く見られて居る點から、文化といふことからは著しく驅け離れた現象であるかの如く思はれて居るのである。
 凡そ國家の発展、文化の発達に當つては、必ず戰争を伴ふのが常である。平和を戰争から切り放つことは、思索的遊戯としては出來る。けれども現實的事實としては不可能である。學問藝術等の所謂文化的現象は、それのみが宛も文化そのものであるが如く思惟しされ易い。けれどもそれは文化の一部分ではあるが、決して全體ではないことをわすれてはならない。(後略)」
(昭和十二年(一九三七)十一月二十八日、編者高柳光寿氏)

 

竹内浩三氏

「骨のうたう

 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や」


 

斎藤隆夫氏 

「(前略)一たび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を膺懲する、これが戦争という意味でない。(後略)」一九四〇年二月二日、第七十五議会政治演説。


 

窪島誠一郎氏 「無言館」館主

「あなたを知らない
 
 遠い見知らぬ異国くにで死んだ 画学生よ
 私はあなたを知らない
 知っているのは あなたがのこ遺したたった一枚の絵だ
 
 あなたの絵は 朱い血の色にそまっているが
 それは人の身体を流れる血ではなく
 あなたが別れた祖国の あのふるさとの夕け色
 あなたの胸をそめている 父や母の愛の色だ

 どうか恨まないでほしい
 どうかな咽かないでほしい
 愚かな私たちが あなたがあれほど私たちに告げたかった言葉に
 今ようやく 五十年も経ってたどりついたことを

 どうか許してほしい
 五十年を生きた私たちのだれもが
 これまで一度として
 あなたの絵のせつない叫びに耳を傾けなかったことを
 
 遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ
 私はあなたを知らない
 知っているのは、あなたが遺したたった一枚の絵だ
 その絵にきざ刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ」


 

原爆投下機エノラ・ゲイ号の機長ティベッツ大佐

「原爆投下は私が道徳的にあれこれ考えて決定したことじゃない。戦うのは勝つためであり、そのためには使えるだけの手段を使わねばならない。そのなかで、だれかが傷を負い死ぬのは当然だろう。
 あるいは、こういうふうに正当化できる。つまり、戦争という状態のなかでは、だれだってだれかが死ぬのを知っている。神に召されるときには召されるものなんだ。母親もそうだったが、私自身も運命論者だ。そういう意味では、広島や長崎のあの日は、死んだ人にとって神に召されるときだったんだ。私にはそうとしか思えない。
 私はあの時点での原爆の使用を支持する。もし、まったく同じ状況なら、もういちど、原爆を投下しているだろう」(『週刊朝日』の昭和史)


   

長津功三良氏

 

影たちの証言

「影たちの柩」(抜粋)

「(前略)
=そうね 瀬戸内は食べ物も美味しいので一度行きたいわ
でも広島で泊まるのは 嫌よ
宮島さんか 岩国にして
広島には 現在いまも 何十万もの浮かばれない亡霊がいて彷徨っているから
少々お経をあげたくらいでは 駄目
いま生きている人らが 皆あの世へ行った頃でなきゃ とても浮かばれないのよ

そう言えば
晴れた冬の夜
旧市街一帯 時折青い燐光を放ち
怨念の塊の 音もなく燃え上がるのがみられる
重い河面の漣に 波打つ紅暈のゆらめきがみえる
彷徨う影たちの 沈黙のゆらめきが
(後略)」

「人間と原子爆弾と 共存できる筈もないのに
 大国は まだ新型の原爆を 実験している
 戦争の抑止力とは 人間の理性 ではないのか
 そうだろうな 落とした国があったくらいだから
 自分の国も 所有していたいのだろうな
 しかし 持たない国はどうなのか
 一緒に 水の惑星・緑の地球に 住んでいるのではないのか」

 

   

 

笠木透氏

「戦争中の子どものうた

 ぼくは軍人大きらい
 今に小さくなったなら
 おっ母ちゃんに抱かれて
 乳のんで
 オナカの中へ
 消えちゃうよ
 (後略)」

上記歌の基歌
「僕は軍人大好きよ

 僕は軍人大好きよ
 今に大きくなったら
 勲章つけて剣さげて
 お馬にのってハイドウドウ
     詩 不詳
     曲 小山作之助」の替え歌


 

与謝野晶子

「ああ、弟よ、君を泣く
 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば
 親のなさけはまさりしも、
 親はやいばをにぎらせて
 人を殺せと教へしや、
 人を殺して死ねよとて
 廿四までを育てしや。
 (後略)」


 

「息子がいない者は、戦争が何であるかわからない。──ジョセフ・ド・メーストル(1753−1821)」

「戦争が起きると、悪魔は地獄の領地を広げる」スペインの諺

「戦争をおもしろがるのは無経験者だけだ。──ピンダロス「歌と踊り」(前五世紀)」

 ピアスは「悪魔の辞典」
「(前略)平和の土壌は、戦争の種子が厚く一面に蒔かれていて、その蒔かれた種子が芽を出し成長して行くのに、この上なく適していることを意味している。(後略)」

 一九六七年、八年ごろ、サイゴンにはやった歌。
「子供よ 大きくならないで
 おまえが大きくなると
 戦争に行ってきっと死んでしまうだろう
 子供よ、どうかのこまま
 このままでいておくれ」

「共産党が弾圧された。私は共産党員でないので黙っていた。
 社会党が弾圧された。私は社会党員でないので黙っていた。
 組合や学校が閉鎖された。私は不安だ。しかし黙っていた。
 教会が弾圧された。私は牧師だから行動に立ち上った。
 しかし、そのときはもう遅かった。
(ナチス時代を回顧して──西ドイツ牧師マルチンニーメラー)」

「敵を恐れるな──。彼等は君を殺すのが関の山だ。
 友を恐れるな──。彼等は君をうらぎるのが関の山だ。
 無関心な人びとを恐れよ──。彼等の沈黙の同意があればこそ 地上にはうらぎりと殺りくが存在するのだ。
(ヤセンスキー著「無関心な人びとの共謀」巻頭文より)


 

特別な国  ケン・ジョセフ氏

国際社会における日本の孤立を、国際世論を代表するNewsweekでは最近「なぜ日本は友だちがいないのか?」と題して大きく取り上げている。国内では、他国と協力しあいアジアのリーダーとなっていくためには日本は変わっていかなければならないなどの理由をつけ、憲法改正や自衛隊を自衛軍として位置付けするなどの問題が取り上げられ騒がれているが、まさにそれこそが日本を孤立化させ「真の友のいない国」と言わせている理由なのである。

国民に対し政府は、憲法改正は世界の意見を取り入れ日本を他の国と同等の立場に持っていくことであると思わせようとしているが、それは全く逆のことなのである。憲法9条という世界が 理想とする素晴らしいルールを持っていることこそ、戦争をしない国という立場こそが、日本を特別な国とし、またリーダーシップをとるべき国とする土台なのである。このNewsweekの記事ではこのことを世界の一般論としてわかりやすく伝えている 。

事実、私が昨年NYにて小泉総理にインタビューした際、「日本の国民は自国の憲法を好いているにも関わらず、政府のいう国連常任理事国になるためとか普通の国家になるためという理由に、やむを得なく憲法改正に賛成している者も少なくはない現状ですが、それについてどう考えますか?」という質問に対し総理は、「日本が常任理事国になるにも普通の国家になるにも憲法改正は関係ない」と答えた。ではなぜ、憲法改正はそんなにも大きい問題となっているのか?それは戦前の軍事大国を復活させるためである。

国家の60年の夢であった、かつての日本を取り戻すためである。日本の自衛隊がイラクの地に足を踏み入れたとき、イラクにいた私は数々の失望のため息を耳にした。「あの理想の平和ルールを掲げた日本すら、他の国同様悪い国になってしまうのか。力を持って押え込める国家になっていくのか。」と。このままでは日本は他の国と同じ立場にたつどころか、日本が唯一ユニークで特別な存在として注目を浴びることのできる憲法9条という理想的ルールを手放すことにより、世界のステージからおろされてしまうであろう。

日本は世界が理想とする特別な国である。いつから日本はその特別な存在から、普通の国を目指すようになったのか。世界でただひとつ正しい光を発することのできる立場をなぜ手放そうとするのか。

国際世論はすでに行く末を見据えて率直なメッセージをこの記事に込めて発信している。これを日本は、日本国民はどうとっていくかが今後の日本の国際社会における立場を左右していく重要なカギであると言えるであろう。

ケン・ジョセフはJhelp.comの代表者であり、その国内外の両立場を踏まえた目線からみた日本国憲法についての著書、「特別な国」を2月に徳間書店より出版する。


 

『原爆詩集』・序  とうげ 三吉さんきち)氏

「ちちをかえせ
 ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ
 わたしをかえせ
 わたしにつながる
 にんげんをかえせ
 にんげんの
 にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ」

 

永遠とはのみどり 原 民喜はらたみき)氏

「ヒロシマのデルタに
 若葉うずまけ
 
 死とほのほの記憶に
 よきいのりよ こもれ
 
 とはのみどりを
 とはのみどりを
 
 ヒロシマのデルタに
 青葉したたれ」

 

あの日 木村 和氏

「八月の死者たちは
 空からもどってはこない
 リトルボーイが広島にきたあの日
 ファットマンが長崎にきたあの日
 かわって人々が原子雲の中に
 一瞬にすいこまれた日
 被爆紀元がはじまった日
 
 八月の尖光は
 空へと一気にかけ上がった
 生き残ったすべての者の胸に
 あの日の尖光をかいくぐって
 死に切れない死者たちは叫び寄るか
 六日の広島、九日の長崎に
 核時代の夏がめぐる
 
 八月の赤い花に
 だから問え、兵士であった
 あなたの父や兄たちは
 あの日どこで何をしていたか
 罪のない者がどこの国でも
 どのようにむごく殺されていったか
 死者はやさしく眠れるか
 
 八月のあの日のこと
 それは三月でもあり九月
 あらゆる日があの日だと
 言い続けみつめること
 あの日こそ日付けのない
 未来の日、あらゆる種族に
 絶滅がはじまる日」

 

エンドレスピーク 森村誠一著より

 日本は戦争の犠牲と反省を踏まえて、世界に例を見ない平和憲法を制定した。
 平和憲法制定以前は、国家の独立と国民の安全を最終的に保障するものは軍であった。
 だが、核兵器の出現によって、軍に最終的に頼っている限りは、人類の滅亡と地球の破滅に至ることを日本は逸速いちはやく気づいて、独立と安全の保障を軍に託する歴史的な考えに訣別けつべつした。
 戦争を永久に放棄ほうきすることを宣言したものの、米ソ東西軍事対決の戦略的狭間はざまに立っている日本は、憲法に忠実に生きることは不可能であった。
 そして日本は、米ソ二大軍事対決の構図の中で、米国の同盟国としてその傘の下に生きる選択をしたのである。
 憲法違反の下の選択である。
 ここにソ連が解体して、東西軍事対決は終わり、この選択の先見性が実証された形となった。
 だが、核戦力の均衡きんこうのもとに保たれた見せかけの平和は、薄氷はくひょうの上にあった。

〜 中略 〜

 戦力の均衡によって平和を維持しようとする限り、限りもない軍拡競争に並ばなければならない。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、安全と生存を保持しようと決意した」日本は、軍拡のレースからおりた。
 世界の諸国家が武装している前で、自ら最初に丸腰となったのである。
 だが、これは見せかけであって、憲法違反の下、日本はアメリカの盟友として再軍備した。
 最も効率のよい戦争は、先制攻撃である。アメリカの傘の下、専守防衛をむねとしている日本の自衛隊は、最初からけることを想定している。
 日本国民は必ず敗ける自衛隊によって手厚く護られている。再軍備するなら必勝(先制侵攻)の軍をつくらなければ意味がないところに専守防衛のまやかしがある。
 自国の防衛を他国にゆだ委ね、偸安とうあんの夢にふける日本は、一国独善の閉鎖列島と罵倒ばとうされている。
 だが、独善でない国が世界のどこにあるか。アメリカにしても、日本のために日本を守っているわけではない。アメリカの不沈空母として戦略的価値の極めて高い日本列島を、アメリカのために守っているのである。
 世界の反対を押し切ってのフランス、中国の核実験、イラン、北朝鮮の核開発も、一国の独善性を象徴している。
 日本はこのような独善の諸国家を、平和を愛する公正と信義の諸国民と信頼して、自国の安全と生存を保持しようとしたのである。
 それは人類の理念であり、現実からはほど遠い。
 だが、その距離を埋めようとする努力こそが、世界で最初に核兵器の洗礼を浴びた日本の責務である。
 日本の独善をののしる者は、現実に理念を売り渡し、過去から永久に教訓を学ばない者である。
 仮に日本を一国独善とゆずったとしても、ほかにどんな選択があったか。
 もし日本が戦争を放棄せず、軍事大国化の道を歩んでいたなら、日本の安全と幸福、および世界の平和により大きく貢献していたであろうか。
 日本の戦後の軌道きどうにさまざまな批判はあるとしても、結局、日本の選択がベストではなかったか。

〜 中略 〜

 観念の遊戯にすぎない平和憲法の下での一国の独善的平和と罵られても、日本が選択した理念の憲法による平和への悲願は、犠牲者の霊の前にたたずむとき、正しい選択であったと言えるようにしなければならない。
 理念は思索的な遊戯ではない。世界が武装している前で最初に丸腰になって(実際は丸腰ではないが)人類共通の理念の追求を高らかに宣言したことを忘れてはならない。


 
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